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第78回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「カーテンコール」南原麻子

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作文・エッセイ
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第78回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「カーテンコール」南原麻子

 五月とは思えぬ強い陽光に目を細めながら、藤田憲一は小学校の正門前でブレーキを踏んだ。咥え煙草で運転席を降りると、暗幕や大道具で溢れかえった二トントラックの荷台から団員達がぴょんぴょんと飛び降りてきた。

「あっちい」

 頭にロバの耳をつけた全身タイツ姿のトっちゃんこと徹さんが言う。今年四十路を迎える最年長の団員だ。彼曰く「芝居は移動中から始まっている」のだそうだ。

「だから現地で着替えりゃあいいのに」

 呆れて笑うのは日仏ハーフのルイ。醤油とソースを混ぜたような濃い味の憲一と違って、すっきりと端正な顔立ちだ。ルイは、隣で涼しくも艶っぽい微笑みを浮かべている美以子(みいこ)にちらりと視線を向けた。ルイが彼女を意識しているのを憲一は知っている。憲一は、悪いなルイ、と心の内で呟いた。なんと、その美人は俺の恋人だ。

 劇団チューリップは全国の小中学校を巡る児童向け演劇専門の劇団である。役者一人当たりのギャラは一舞台五百円。プロとは名ばかり、巡業のない季節は稽古とバイト漬けの貧乏集団だ。夢見ていた役者人生とは程遠い。    

 母と観たレ・ミゼラブル。それが全ての始まりだった。緞帳の向こうに広がる異世界。総立ちの観客と割れんばかりの喝采。鳴りやまぬカーテンコール。幼い憲一の背に電流が走り、強く思った。自分もあそこに立ちたい!

 しかし父は厳格な人だった。とてもじゃないが役者になりたいなどと言い出せぬまま、時は過ぎた。一旦は大学に進学した。しかし、とうとうある日、黙って退学届けを出した。案の定、父は激怒し、そのまま勘当された。

 父の言う通り現実は甘くなかった。養成所を出て大手劇団のオーディションを受けまくるも全滅。唯一合格したのが今の劇団だ。気が付けば十年。三十歳になっていた。いつまでこんな生活を続けるのか。不安になる日もある。しかし、客席の子供達の笑顔を見れば励まされ、演じる喜びが腹から湧きあがってくる。そして、やはり芝居のない人生など考えられないと思い直すのだ。

 その日は午前と午後の二回講演をこなし、近くにとった安宿に皆で引き上げた。クタクタなのに、誰からともなく酒を持って一部屋に集まり、演劇論が始まるのは毎度のことだ。

 いつもと違ったのは、ルイが芝居をやめると言い出したことだ。聞くと先月、女手一つで彼を養ってくれた母が急逝したという。いつか大物になって楽をさせてやると役者を志したが、現実は妹の旦那に葬儀の費用を捻出してもらうしかなかった。

「情けないな。潮時だよ」

 ルイは顔を歪めた。

 夜中に目が覚めて便所に行くと、暗い廊下で美以子と出くわした。偶然かと思ったが、憲一の足音に気が付いて待っていたらしい。彼女は小さな声で妊娠を告げると「ごめんね」と言った。女達の眠る部屋に戻っていく彼女の背中を見ながら、憲一は自分が情けなかった。子供が出来たことを謝らせる男。芝居馬鹿の自分は、そういう男だ。

 ルイの言った「潮時」という言葉が頭をよぎった。

 

 三十五年の時を経て、憲一は感慨深い思いで観客達の顔を眺めていた。しかも今日、憲一は主役である。静かな幸福が胸を満たしていた。

 それにしても、と憲一は思わず笑みが零れそうになる。美以子は、ちょっと泣き過ぎだ。横で、乳飲み子を抱えた娘の美千代が、子供をあやすのも忘れ、母親の肩を抱いている。

 懐かしい顔もあった。ルイだ。相変わらずクールで嫌みな男前だ。あの顔でスーパーの店長だというのが笑ってしまう。

 その隣にいるのはトっちゃんだ。まさか、来てくれるとは思っていなかった。というのも彼は、今や日本で顔を知らない人はいない名脇役だ。三十五年前のあの時で四十歳。正直、誰もが駄目だと思っていた。貧乏役者で野垂れ死にするもんだと思っていた。

 憲一は胸の内でトッちゃんに謝った。「移動から芝居は始まっている」って、あの言葉、実は馬鹿にしていたけど、今や名言にさえ聞こえるよ。人生は本当に分からないものだ。

 社長と部長も来てくれていた。先代の社長は、三十過ぎで初めて就職した憲一に本当によくしてくれた。かなり使えない自分を、いっぱしの社会人に育てあげてくれた恩人だ。定年まで世話になり、去年、なんとか美千代を嫁に出すことができた。

 憲一は改めて思う。

 今日は本当に、たくさんの人が来てくれた。大盛況とまではいかないが、自分なんぞが主演の舞台としては大満足だ。

 白黒の縦縞を配した鯨幕が、厳かに祭壇を囲んでいる。たくさんの白菊に囲まれた憲一は、我ながら良い顔で笑っていた。

(了)