現代と昔で大きく意味が異なる言葉 その1
小走り
今回から何回か「現代と昔で大きく意味が異なる言葉」に関して詳述する。
時代劇を書く場合、「現代とは意味が異なる」と承知の上で、敢えてその言葉を使うか、知らずに使うかで大なり小なり変わってくる。
『超高速参勤交代』という、かなりヒットした映画がある。
岩城平から江戸まで、たったの五日で参覲(「参覲」は「将軍に拝謁する」こと)する、というもの。
しかし、岩城平から江戸まで五日であれば「超高速」ではなく「高速」のレベル。
「超高速」は、謀叛の疑いを掛けられた加賀の前田家(第三代の利常の時)が、嫌疑を晴らすために江戸までの二百㎞近い道程をたったの七日間(通常であれば十五日)で突っ走ったのが、まさに該当する。
この時、先頭を、声を嗄らして走った集団がいる。「下に、下に(土下座せよ)」ではない。
「どけどけ!」「前田家の行列が行くぞ。よけろよけろ!」です。
行く手の人々は、慌てて道を譲って脇によける。道幅が広く、街路樹などがあれば、木陰で行列を見物する。土下座をする必要は、ない。物見高く見物しても、咎められることは、ない。
土下座を求められたのは将軍家および尾張、和歌山、水戸の、徳川御三家である。それだけ御三家は、権威があったわけだ。
この「どけどけ!」と声を嗄らして走る集団は、健脚の足軽たちで「走り衆」と呼ばれる。で、最も健脚の、先頭のそのまた先頭を任されるのが「小走り」である。
行く手に頑是無(がんぜな)い幼児などがいれば、抱き上げて街道脇に避難させる。
この間に後続の行列が追いついてくるので、全力疾走しても、行列の本隊から大きく離れることは、ない。
江戸時代が幕を閉じ、大名行列などはなくなったので、自然消滅で「走り衆」も「小走り」も、なくなった。
そこで、樋口一葉が「ちょっとした早足」のニュアンスで使った「小走り」の誤用が定着し、そのまま現代に至っている。
さて、参覲交代は、前田家の場合は規模が大きいので、現代の金銭換算で、一日におよそ一億円を要した。
前田家は、八億円の費用が浮いたわけである。前田家は、参覲して将軍に面会してもなお、謀叛の嫌疑が晴らせなかった場合に備え、この八億円を軍備に投入する。
こうして寛永二十年(一六四三)に建てられた金沢城の出丸が「忍者寺」こと日蓮宗の妙立寺である。
妙立寺がどんな奇妙な寺で、金沢城の出丸としか考えられないことは『ウィキペディア』で「妙立寺」を検索すれば詳しく載っている。
この妙立寺は、前田家三代目の前田利常(文禄二年(一五九四)~万治元年(一六五八)が創建した。
徳川幕府は第二代将軍・秀忠(在職は慶長十年(一六〇五)~元和九年(一六二三)から第三代の家光(在職は元和九年(一六二三)~慶安四年(一六五一)である。
この頃は、豊臣家の滅亡した大坂の陣(慶長十九年(一六一四)~二十年)から、まだ少しの年月しか経っていない。
日本中に、何とか豊臣家を再興させようという動きがあった。
特に前田家は、開祖の前田利家が豊臣秀吉とは無二の親友だった間柄である。秀吉の下で、前田家は加賀百万石の大大名に伸し上がった。
徳川家康は豊臣家を滅ぼすのに成功したが、前田家の開祖の利家(天文七年(一五三九)~慶長四年(一五九九)の死後である。
そもそも関ヶ原合戦も、あたかも利家の死を待っていたかのように、翌年の慶長五年に起こっている。
いや、「あたかも利家の死を待っていたかのように」ではなく、実際に家康は利家の死を待っていたに違いない。
もしも前田家が関ヶ原合戦で西軍についていれば、家康の勝利はなかったであろう。
家康は関ヶ原合戦に先立って、前田家の内応を取り付けたに違いない。
前田家は嫡子の利長が東軍、弟の利政が西軍に別れて戦ったが、これは形ばかりで、実際には、利政は参戦していなかった。
戦後、利政は所領を没収されたが、それは、そのまま利長に与えられて、前田家全体として見れば、所領は全く減っていない。
それどころか西軍についた大名の旧領の十八万三千石を与えられている。
前田家は徳川政権において尾張・和歌山・水戸の御三家に次ぐ地位を与えられ、利常の正室は徳川秀忠の娘の珠姫、その間に生まれたのが第四代の光高である。
この光高は御三家第三の水戸家の徳川頼房の娘を正室に迎え、その間に生まれたのが第五代の綱紀と、いよいよ徳川家との繋がりを深めていく。
プロフィール
若桜木虔(わかさき・けん) 昭和22年静岡県生まれ。NHK文化センターで小説講座の講師を務める。若桜木虔名義で約300冊、霧島那智名義で約200冊の著書がある。『修善寺・紅葉の誘拐ライン』が文藝春秋2004年傑作ミステリー第9位にランクイン。