第77回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「観察する側、される側」松田美紀
夏休みも半ばを過ぎると、宿題の進み具合が気になり始めた。心配になったのはお母さんのほうで、当のショウちゃんは他人事のような顔で毎日ゲームをして遊んでいた。
業を煮やしたお母さんは、ショッピングモールにショウちゃんを連れていった。おもちゃ売り場にすっ飛んで行こうとするショウちゃんをお母さんは制止し、代わりに「夏休み自由研究コーナー」という派手なノボリの元に引っ張っていった。ノボリには「まだ間に合う!」と書き添えてあったので、お母さんは少しホッとした。
「わあ、おもしろそうな物がたくさんあるわね! ショウちゃん、どれがいい?」
ショウちゃんのテンションを少しでも上げようと、お母さんはできるだけ弾んだ声を出した。ショウちゃんは、ワゴンに並んでいるカラフルなパッケージをちらりと見ただけで、
「こういうのじゃなくて、ゲーム日記とかじゃだめかな?」
やる気のなさそうな声を出した。
「ゲーム日記って何よ?」
「新しいゲームを買って、何時間でそれを攻略するかとか、上達の記録」
お母さんは低い声で、
「却下」
とだけ言った。ショウちゃんにはまだ難しい言葉だったけど、お母さんが言わんとしていることは分かった。
結局、お母さんが選んだのは「アリの観察セット」だった。先生ウケしそうな内容の割に手間がかからなさそうだし、何よりも価格が魅力だった。セットの構成があまり凝ったものでないせいか、他のものより千円ほど安かった。
ショウちゃんは、説明書通り、セット付属の水槽に、セット付属の土を入れた。アリは近所の巣から取ってきた。何日かすると、アリは見事な巣を作った。しかしショウちゃんがやったのはそこまでだった。アリの水槽がカンカン照りのベランダに置きっぱなしになっているのをお母さんが注意すると、今度はずっと日陰に置かれていたりした。お母さんはしかたなくため息をつきながら置き場所を変えてやるのだった。
ある日、ショウちゃんは庭で水鉄砲の射程距離を試していた。その時たまたま、水がアリの水槽に入った。おお、あんな所まで届くんだな! ショウちゃんはすっかりおもしろくなって、水槽めがけてどんどん水を放った。水槽はたちまち水であふれてしまった。ショウちゃんは水槽を傾けて、生き残っているアリを見つけようとのぞきこんだが、そりゃあ無理な話だった。これまでどんなことがあってもがんばっていた小さな命は、これですべて消えてしまった。ショウちゃんの口から、「ありゃ、こりゃだめだ」という言葉が漏れた。それはちっとも残念そうではなかった。
その夏は格別に暑かった。毎日毎日、太陽がフルパワーで照り付けた。やがて水道の水が出なくなった。小学校に給水所が設けられ、住民はバケツやポリタンクを持って水を汲みに行くことになった。熱中症で倒れる人もたくさん出た。救急車がいつも走り回っていた。
結局、ショウちゃんは自由研究を提出できなかったが、先生は何も言わなかった。
そのうち、やっと涼しくなったが、今度は氷点下を下回る日が続いた。たまらずお母さんは冬物を引っ張り出した。家の中でも分厚いダウンコートを着て過ごした。
そんな中、やっと雨が降り始めた。ホッとしたのもつかの間、雨は何日も何日も降り続いた。そのうち近所の川があふれた。水はあっさりと堤防を乗り越え、街を飲み込んだ。
お母さんはショウちゃんを連れて、高いところにある小学校に逃げ込んだ。体育館は避難してきた人たちですでにいっぱいだったので、校庭に張ったテントで暮らすことになった。テントに雨粒が当たる音は、ショウちゃんたちをたまらなく不安にさせた。
慣れないテント生活を続けていたある日。突然、地面が大きく傾いたかと思うと、地面のいたるところに亀裂が走った。あちこちで叫び声があがった。とっさにショウちゃんは傾いたテントの柱につかまり、お母さんを探した。お母さんはどこにもいなかったが、その代わりショウちゃんは見たのだ。空に浮かぶ、とてつもなく大きな目を。それは逃げ惑う人間たちをキョロキョロ見まわしていた。
ショウちゃんがいつまでもそうやってぶら下がっているのは無理だった。手を放してしまった。すごい勢いでショウちゃんの体が地面を滑り落ちていく。ショウちゃんが地面のひび割れに吸い込まれたまさにその時。雷鳴のように大きな声が轟いた。
「ありゃ、こりゃだめだ」
それは、ちっとも残念そうではなかった。ショウちゃんに聞こえたかどうかは分からない。
(了)