第77回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「見る目を変えれば」獏太郎
公用車に乗って、市長はある場所へ向かっていた。そこは住民から、橋の下や高架下にホームレスが集団で住んでいるので何とかしてほしい、と苦情が相次いでいる所だ。市長は外を見て、思わず声をもらした。
「こんなにいたとは」
高架下はホームレスであふれかえっていた。市長はホームレスたちをさげすんでいる。幼い日にホームレスから暴力を受け、いまだにトラウマになっているからだ。石を投げた自分が悪いのに、罪悪感を持っていない。奴らは街の美観を損ねるだけでなく、治安も悪くする。一掃せねばと、ずっと憎んでいる。
車が止まり、市長は外へ出た。ポケットからハンカチを出して、鼻を押さえた。周りを見渡す。住民の安全のためにも排除せねば。 市長は車に急いで戻った。
一ヶ月後、市長は大勢の職員を引き連れて、高架下へやって来た。ホームレスの住居を、強制的に撤去するためだ。事前に立ち退くように貼り紙を出していた。立ち退き期限は昨日だ。どこかへ行かない方が悪いのだと市長は思っている。
職員たちは表情を変えることなく、ホームレスの住居の撤去を始めた。すると追い出されたホームレスたちが、一か所に集まり始めた。そこには五〇台後半ぐらいの男がいた。市長と目が合った。他のホームレスにはない、何かを感じる。市長の足が、自然と向いた。男の住居前に市長は立った。屋根はない。段ボールで出来た仕切りを支えるように、沢山の古びた本が積まれている。本にシールが貼ってある。図書館のものだ。歴史ものから大きな賞を受賞した作品まで、多種多様な本がある。市長が口を開いた。
「お前さんたちがここにいると住民が怖がって仕方がない。どこか違う場所へ行け」
男は無言で市長をじっと見つめている。やはり、市長は男の目が気になる。市長が男に近づいた。
「お前さんの目を一週間だけ私に貸さないか」
男の表情が動いた。
「意味が分からないのですが」
「さっきから、お前さんの目が気になって仕方がない。どんな景色を見ているのか、何となく気になる」
「他の方と同じ景色を見ているだけです」
男は淡々と答えた。
「いやー、違う気がしてならない」
市長は、しつこく食い下がる。
「一週間したら返しに来るから貸してくれ」
男が何度断っても、市長は引き下がらない。ついに根負けした男は、片目を市長と交換することにした。同時に男は交換条件を出した。
「もう撤去はやめてくれ。それが条件だ」
「いいだろう」
こうして市長と男は、それぞれの右目を交換した。
庁舎へ戻る車の中で、市長は男の目を思い出していた。なぜあんなにも力を感じるのか、何がそうさせているのか。自分で確認してみたくなった。だから男と目を交換した。市長の見える景色に、見慣れないそれが重なって見え始めた。どうやら男が見てきたもののようだ。思わず市長が「おわっ!」と声を出した。公用車は急に止まり、運転手が後ろを振り向いた。
「どうかなさいましたか!」
「……い、いや。何もない」
なめらかに、滑るように加速を始めた社用車の後部座席に、市長は体を深く預けた。
約束の一週間が過ぎた。市長は男のところへとやって来た。職員が撤去したホームレスの住居は、すっかり補修されていた。市長が男に近づく。ホームレスたちが警戒する。男は背中を少し丸めて、本を読んでいた。「ちょっといいかな」と、市長は声をかけた。すると男は近くにあった短冊状の広告を本に挟んで閉じた。市長が口を開いた。
「目を返しに来た」
男はゆっくりと、静かに立ち上がった。市長と男は、右目を交換した。ちゃんと収まったのを確認すると、市長は深々と頭を下げた。
「すまなかった。勝手にみなさんの家を荒らしてすまなかった」
小さな沈黙が出来た。男が口を開いた。
「ホームレスになった人にはそれぞれ事情がある。人に迷惑をかけずにそっと生活している。どうかそこは理解してほしい」
市長が男の目を借りて見た景色。それは、いわれのない暴力にじっと耐える姿や、何気ない、それぞれの日常だった。市長は、ホームレスたちを毛嫌いしていたかつての自分を恥じている。同じこの街に住んでいるのに、何の違いがあるというのか。
市長は空を見上げた。
「空は、青かったな……」
自分の目で見た空も、男の目で見た空も、どちらも同じ、青い空だった。
(了)