第77回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「暗い目の光」吉田猫
それはもう侘しい人生でした。
小さいころから人の目がたまらなく恐ろしくて誰にも逆らわず、強い者の背中に隠れて、ただただ目立たないように生きてきました。
学生の間はうつむいて誰とも目を合わさず生きていくことはできましたが、しかし大人の社会はそう甘くありません。数字と実績を求められます。他人の目が恐ろしい、など言い訳になるはずもありません。初めて働いた職場でも私は早々に社会不適合者の烙印を押され、自らドロップアウトしました。それからはいわゆる引きこもりの毎日でした。
そんな私も初めて恋をしました。社会と縁を切ってから十年は経っていたので三十歳を過ぎたころだったと思います。お相手は私が唯一買い物をすることができた深夜のコンビニで働くアルバイトの若い女性でした。胸につけている名札で名前は岡山さんだと知りました。レジで掛けてもらえる、ありがとうございました、の声とあの笑顔に私は生まれて初めて生きている喜びを感じたものです。岡山さんの笑顔は私だけに向けられたものではないことぐらい知っていましたよ。それでもかまわなかった。その笑顔を見ているだけで生きていて良かったと思えたのですから。
その日も岡山さんの眩しい笑顔が見たくて深夜、そのコンビニへと足を運ぶと、ちょうど彼女が仕事を終えて店から出てきたところでした。シフトの時間がいつもと違ったのかもしれません。私は迷いました。出直そうか、それともこのまま後ろをついていこうかと。私は決して変態でもストーカーでもありません。ただ彼女の近くにいたい。少しでも長く見ていたい。ただそれだけでした。結局私は少し離れて彼女を追うように後ろを歩きました。しばらく住宅街の夜道を歩くと彼女が一軒のアパートに入ろうとしているのが見えました。自宅のようです。「おやすみ、また明日」と私は心の中でささやいたのでした。
ところが突然その騒ぎが起きたのです。階段の影から一人の男が飛び出してきたかと思うとドアを開けようとした岡山さんの腕を掴んで何事か声を上げているではないですか。最初は何が起きたのか理解できず、ただ立ち尽くしておりました。彼女は明らかに嫌がっていましたが知らない相手ではないようです。でも、しばらくすると掴まれた腕を必死に振り払おうとして悲鳴を上げ始めたのです。
私は力のない男でした。人を助ける勇気や正義感などこれっぽっちもありません。しかしそんな私でも、嫌がる岡山さんを黙って見ていることができなかったのです。私はじりじりと争っている二人に近づき、そして渾身の力でその男を後ろから突き飛ばしました。コンクリートの上に倒れた男は何が起きたのかわからないのか目を見開いて私を見ました。切れかかった蛍光灯に照らされたその男の顔は驚きが怒りに変わっていくようでした。
「何だ、てめえは!」男が叫びました。
私に返す言葉はありません。人を罵倒する言葉など発したこともなければ、争い事に身を投じたことなど一度もないのですから。ただ黙ってその男を見つめました。多分生まれて初めてだと思います。人の目をこんなにしっかりと見つめたのは。私はこの男から殴られるのだろうか、いや刃物で刺されるかもしれないと恐ろしくなりました。ところが不思議なことが起きたのです。その男が尻を着いたまま後ずさりするような仕草で逃げ出そうとしているではありませんか。私を見つめるその表情は怒りではなく恐怖で震えているように見えました。何の力も無い私に恐怖を感じる? あり得ない。しかし男は怯えるように立ち上がると逃げ去っていったのです。岡山さんは顔を伏せたまま小さな声で、すみません、と一言だけ言うとドアを開け中に入るとバタンと閉めてしまいました。岡山さんとはそれが最後でした。それ以降コンビニで彼女を見かけることもなくなりました、その後アパートも引っ越してしまったようです。私の恋は終わりました。
しかし私はあることに気が付きました。試しに街の人込みの中を、顔を上げて恐る恐る歩いてみました。すると驚くべきことが起きたのです。誰もが私と目が合うことを避けています。一瞬目が合ってしまった人も慌てて避けるように顔を伏せています。その表情はあのアパートで見た男の表情と同じでした。そうです。恐怖です。そのとき初めて知ったのです。今まで誰とも合わせることができなかった臆病な私のこの目には人々が戦慄する強烈で邪悪な力があったということを。
それ以降、私の人生は変わりましたよ。この目で、ほら、こうして人を威嚇することが仕事になるのですから。今では目の力で人を殺すこともできるんじゃないかと思うこともありますよ。まあ、それは冗談ですけどね。
ああ、もうこんな時間だ。今日は少し余計なことを喋りすぎたようです。さて、そろそろ、ここに署名捺印してもらいましょうか。
(了)