第77回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「右目が夏休みをとりました」泉瑛美子
右目が、明日から夏休みをもらうと言い出したので驚いた。本気かと聞くと当たり前だと答える。
「まさか、我々臓器が、心臓が止まるまで休みなく働くと思っていたのじゃないでしょうね」
と迫る。そのとおりだとも言えず、
「わかったよ。バカンスをとってもいい。でも君の休暇中、いったい僕はどうしたらいいんだ」
と情けない声が出た。正式に夏休みが決まり嬉しくなったのか、右目の声は少し優しくなった。
「頼りになる左目さんがいるじゃありませんか。あいた眼窩には、うずらの卵かビー玉でも詰めておきなさいよ」
そんな奇妙な義眼をつけて出社したら、同僚が腰を抜かすだろう。無難に眼帯を使うことに決め、薬局へ買いに出た。右目は、旅のしおりでも作りながらウキウキしているらしい。緑やピンクなど、やたらトロピカルな色に視界が染まるので閉口した。
「安心してくださいね、必ず帰って来ますから。自分探しに出かけるとかでなく、ただもう少し、広い世界を見物に行くだけですよ」
しがないサラリーマン生活では、世界一周に出るのは難しい。右目が個人的に願いを叶えるなら、それはそれで歓迎すべきなのだろう。右目は来週の同じ曜日に帰宅すると誓い、ぽん、と飛び出した。痛みもない、素早い旅立ちだった。
結膜炎になったから治るまでは眼帯で勤務したいと上司や同僚へ説明すると、それ以上は詮索も心配もされなかった。思っているほど、他人は自分に興味がない。不思議なのは、こうなって初めて、一人の男性社員が視界に入ってきたことだった。彼はいわゆる窓際族だ。苗字が鈴木だからあだ名は「すーさん」なのだが、その名の通り幽霊のようにすっと席につき、定時にすっと消える。いつもの僕は同期や直属の先輩の動きばかり気にかけていたのに、何故だかすーさんを目で追ってしまう。ある日、彼が十二時きっかりに薄い鞄から弁当包を取り出し、フロアを出るのを思わず追いかけてしまった。休憩所にでも行くのかと思いきや、屋上へ向かう階段を早足で登っていく。見慣れているボンヤリした様子とは違う、堂々とした足取りだ。すーさんは扉を開くとき、ついてきた僕にようやく気づいた。意外そうな表情だったが、一緒に、お昼、食べますか、と妙に文節を区切りながら誘ってくれた。僕は慌てて頷いた。
すーさんは、フェンスに近いところベンチに腰掛けると、弁当箱を包んだハンカチをほどいた。左目でチラリと見やると、アルミの弁当箱を鮮やかな黄色が埋めていた。卵焼きだ。卵焼きが綺麗な断面を見せながら整列し、全体の八割を占領している。ご飯が申し訳程度にちょっぴりと、ミニトマトがひとつ。僕の視線は、片目だけでも疑問を表すのに充分だったらしい。すーさんはくっ、と喉の奥で笑いながら言った。
「卵焼きが多すぎるんで、おかしいでしょう。これはね、祈りであり修行なんです」
あっけに取られる僕を尻目に、すーさんはテンポよく平らげた。僕に分けてくれさえした。カニカマと枝豆を巻いた卵焼きは、甘じょっぱくて懐かしい味がした。
それからの数日、僕とすーさんは共に昼ごはんを食べた。仙人みたいな彼といると、右目が無事に戻るのかという不安を忘れられるのだ。すーさんが、飛行機雲を見上げながら僕に尋ねた。
「死ぬまでに、絶対に行きたい場所はありますか」
僕は特に旅行好きではない。右目もそれを察し、自力で休暇を取ったのだろう。僕が首を振ると、すーさんは僅かに明るすぎる声で言った。
「わたしは、娘の運動会へ応援にゆくのが夢なんです。娘は別れた妻と暮らしていて、ずっと会っていませんが。足が速い子でね、わたしと日曜に作る卵焼きが大好きだった」
今では僕は、彼の卵焼きレシピが凄まじく豊富だと知っている。アサリ、ハム、ツナ、あんこまで入っていたこともある。それらは全て、いつか来るべき再会への、つつましやかな練習だったのだ。
昼休みが終わり、自席へ戻るすーさんの後ろ姿は、いつもより凛として見えた。いや、きっと前からそうなのに、気づけなかったのだ。
右目は、約束通り帰還した。あれこれ絶景を堪能し、おみやげ話がたくさんあるらしい。今夜は晩酌だ。僕が右目の留守中、すーさんと過ごした時間について話したら何と言うだろう。たとえ両目が揃っていても、見ようとしなければ見えないものについて。
今度は左目が冬休みを希望するかもな、と思いつつ、僕はビールの缶を開けた。
(了)