第77回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「アイズ・オンリー」寺山恵
ランドルト環と睨み合って「わかりません」と繰り返した挙げ句、空手で眼鏡屋を出た。検査の結果、私の視力では合うレンズが届くまで一週間はかかるらしい。
三十分で新しい眼鏡を作れるという謳い文句を当てにしていた私は、拍子抜けした。
「残念だったね」フレーム選びに付き合わせた蘭が言った。「とても似合っていたのに」
私は肩をすくめた。蘭の言葉が事実かどうかは、私には判断できない。彼女の美的感覚がどうとかではなく、裸眼では自分の顔もわからないほどの目の悪さなのだ。
「近視?」
「プラス、遠視と乱視。ぜんぶのせだよ」
小学生の頃からそうで、進学に合わせて買い替えるたびに度数が上がっていっている。今の眼鏡は三代目だ。大学を卒業する頃には盲目になっているのかもしれない。
「ねえ、見えないってどういう感じ?」
眼鏡屋近くの公園で、蘭が言った。
本当は喫茶店でお茶でもと思ったのだが、蘭は、犬や子どもや草や虫に目がないので、ベンチに座って缶コーヒーを飲むことにした。平日午後で子どもは少ないが、それ以外はぜんぶ見られる。
私は眉間をもみほぐしながら「どうもこうも」と答えた。「目に映るもの全てがぼやけているし、光るものはドクドク脈打って見えて、月と街灯の区別もつかん」
「へえぇ」
感心したような声を漏らす蘭は、栃木の山奥から上京してきており、だからというわけではないだろうが、視力矯正とは無縁の人種だった。
大教室の後ろの席でも板書に支障がないというから羨ましい話だ。本人は「後ろはみんな寝ている」と言って前の方に座りたがるので、あまり活かされていない能力のようだが。
だから、必修の国文学研究の最前列で、ただでさえ読めないくずし字の判読に死にかけていた私の隣りに蘭が座ったのは、本当に偶然だった。
「悲惨だよ」
冷めた缶コーヒーを、組んだ膝の上でちゃぷちゃぷと揺らしながら私はこぼした。
「五線譜で、ミとソの区別がつかないんだよな。美術の「美」と英語の「英」も。体育とか地獄だよ。誰が敵で誰が味方かわからないんだから」
音楽の授業でハーモニーを破壊し、時間割を間違え、試合のたびに戦犯扱いを受けながら、我ながら、よく大学に入れたものだと思う。
ふと横を向くと、蘭は押し殺した笑いで肩を震わせていた。思わずムッとして肘で小突くと、「いや……いや、ごめん」と返ってきた。
「ちなみに、コンタクトは……?」
「怖いから嫌だ」
「ンフッ……そうか……そう……」
面白い話をしたつもりがないので、一周まわって私は悲しくなった。
コーヒーを脇に置いて、外した眼鏡のレンズを、マキシ丈のスカートの端で拭う。フレームが歪んでいて、しょっちゅう中指で鼻筋に押し当てるせいか、指紋で汚れている。
「……電車でうとうとしてさ、ふっと目を覚ました時に、自分がどこにいるのか、本気でわからないんだよ。路線図も読めないし。いつかどこかに行ったっきり、戻ってこられなくなるような気がする」
眼鏡を掛け直すと、蘭は見たことのない顔をしていた。私は目をすがめた。いつから知らん人に話しかけていたんだろうと考え始めた頃、彼女は不意に鼻から抜けるような笑いを洩らした。
蘭だった。
「それって、たぶん視力と関係ないよ。繭実ちゃんって意外と抜けてるよね」
「……そうかな」
抜けてるって何がだろうと思いながら、私はうなずいた。間だろうか。それともネジ?
「うん。そういうところが気に入ってるんだ」
「ふうん」
物のように言われたことはわかっていたが、私も大概なので文句はつけられない。
私にとって、蘭が蘭である意味なんてひとつも無いからだ。自分以外のすべての区別が、本当につかないから。
「来週、楽しみだね」
蘭は、白くて大きな、ふかふかした犬でも見かけたような声で言った。私は目を公園へ転じたが、砂場で親子連れらしい影がたむろしているほか、今のところ動くものの姿はなかった。
「あの眼鏡、大学にかけてくるでしょ? みんな驚くよ。とてもよく似合ってたんだから」
そう、と私は小さくうなずいた。
この際、別に蘭のセンスがトンチキで大学中の笑いものになったとしても、構わなかったのだ。そんなことは慣れっこだし、顔もわからない人たちにバカにされたって、またかと思うだけだ。
私は目が悪くて、悪くなり続けていて、それは今さらどうしようもないから、せめて、目には見えなくとも大切なものが世の中にはあるはずだという思い込みを鍛える以外、できることがない。
それから、耳を澄ました蘭が、雲雀の声がしたと主張するので、二人で探してみることになった。
(了)