第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「善人なおもて往生を遂ぐ」齋藤倫也
大河原剛造は、地元ではちょっとした名士で通っていたが、その実は裏社会の顔役だった。
××協会名誉会長だの△△連盟名誉理事だの金と脅しで手にした肩書をひけらかし、闇金や闇賭博を一手に仕切り、逆らう者は札束で頬を張って手懐け、邪魔者は容赦無く叩き潰した。渋面を絶やさず、誰一人信じることなく睨みをきかせ、のし上がってきた彼の座右の銘は〝勝てば官軍〟だった。
その朝、出かけようとした彼を玄関で待っていたのは、いつものお抱え運転手ではなく死神だった。
「お迎えにあがりました」
大鎌ももっておらず、フードの着いた黒いローブも纏っていなかったが、死神の声音には暗くて低く深い響きがあった。
「じゃあ俺は死んだってえのか?」
剛造は思わず問いかけた。
「左様でございます」
「俺が死んだだと? 畜生め! 何故だ! どこのどいつだ、俺を殺った野郎は!」
剛造は、死神の胸倉を掴んで乱暴に揺すった。
「落ち着いてください。御自分の死を自覚できないのは珍しいことではありません。そのうち慣れます。それに貴方様は心臓麻痺で亡くなられたのでご安心下さい」
死神は、そう言って玄関の引き戸を開けた。
剛造が目にしたのは、警備員代わりの屈強な手下がうろつく無駄に広い見飽きた庭ではなかった。そこは法廷だった。中央には証言台があり、剛造はそこに立って地獄行きを宣告される自分の姿を思い描いて思わず身震いした。傍聴席は且つて剛造が酷い目に会わせた人々でざわめいていた。
地獄の沙汰も金次第とは言うものの、冥土ではがめつく貯めた財産や、脅しや強請、泣き落としといった得意技は通用しそうになかった。万事休す。だが剛造は諦めなかった。打開策を求めてポケットというポケットをまさぐり、一個のサイコロを探し当てた。それは修羅場をくぐり抜けてきた彼の、言わば御守だった。彼はこのチャンスに飛びついた。
そのサイコロに息を吹きかけ、彼は言った。
「死神さんよ。ひとつ俺と勝負しようじゃないか」
「勝負? チェスですか?」
「いいや。このサイコロだ。一発勝負、こいつを振って大きな出目を出した方の勝ちだ。但し、あいこだった時は振り直し。どちらかが勝つまで続ける。俺は自分の魂を賭けるぜ。地獄行きは御免蒙りたいからな。さあ、どうする?」
「いいでしょう」
してやったり! 剛造は思わず笑いだしそうになるのをこらえ、神妙な面持ちを装った。
細工師を始末しまったので仕組みは分からず仕舞いだったが、そのサイコロは、彼が息を吹きかけさえすれば出目を自由に操れるイカサマ仕様だったのだ。
「但し、こちらにも条件があります」死神は続けた。貴方様が勝った場合、こちらの方々の中から御一方、貴方様の身代わりとして地獄に堕ちて頂きます。その御一方は私めが選びます。よろしいですな?」
剛造に異論はなかった。傍聴席で彼を睨みけている連中の一人や二人、地獄に堕ちようが痛くも痒くもない。
死神が選んだのは、一人の悲しそうな顔の若い女性。剛造を捨てた母親だった。さすがに彼はうろたえた。お袋は俺を捨てておいて、俺を恨んでいるというのか?恨むのは俺の方じゃないのか。いや、違う。あの顔を見ろ。他の奴と違って俺を睨んでなんかいない。お袋は、お袋は俺を捨てたやましさからここにいるのだ。あまりに大きく重い悔恨から逃れられずにここにいるしかないのだ。
千々に乱れた彼の心をよそに、死神がサイコロを振った。出た目は“五”。剛造は受け取ったサイコロを握り締め、もう一度、母の顔を見て、また自分の手に視線を戻したかと思うと、再び母の顔をじっと見つめた。ようやく彼は掌の中でサイコロをゆっくりと振った。もはや〝六〟の出る運命には抗えなかった。と、その時、
ハァックション!
剛造のわざとらしい大きなくしゃみが法廷内に響き渡った。彼が開いた手には何もなかった。重い沈黙を振り切って剛造は大きな声を出した。
「あ~あ、サイコロがどっか行っちまった。えーい、しゃらくせえ! どうにでもしやがれってんだ!」
そして剛造は彼をじっと見つめたまま天へと、まばゆい光の中へと昇っていく母を見送った。
翌日、新聞やテレビに大河原剛造の訃報が載った。だが、彼の死に顔が、裏社会の大物らしからぬ穏やかな笑顔を浮かべていたことを報じたものはひとつもなかった。
(了)