第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「わが家の玄関」村木貴昭
玄関を開けると、そこは廊下だった。だだっ広く、磨き抜かれた廊下だった。その廊下に西日を背負った私の影がぽつんと長い三角形をつくる。
「ただいま」と廊下の奥に言ってみた。
耳を澄ますと、ピカピカの廊下をバタバタと小さな足音を響かせ、私のほうに向かってくる足音が聞こえてくる。足音と同時に騒がしい声も聞こえてくる。いたずら好きで、私にちょっかいをかけてくるふたりの娘、ちびっこギャングたち。
笑い声とくしゃくしゃの笑顔がすぐそこに来た。ピチャ、ピチャと水が撥ねた。お盆に載せたコップから水がこぼれたのだ。
おいおい今日はなにをするつもりだ。
玄関に立つ私の前でピタリと足音が止む。
ふふふ。ふふふ。ふたりの笑い声が重なる。
そのまま笑いながら、ふたりは玄関マットのうえにお盆を置き、きちんと正座した。
「お父さま。お帰りなさいませ」
どこで覚えたのか丁寧な言葉遣いで娘たちが出迎えてくれた。
長女は三歳。次女は一歳。どちらも目に入れても痛くない娘たち。ふたりともおでこにいっぱい汗を浮かべて座っている。
「いま帰ったぞ」などと偉そうに胸を張る。
娘たちはパパが大好きと言ってくれる。疲れを引きずり玄関を開けたところで娘たちの笑顔に会うと、疲れなどあっさり吹き飛ぶ。
まさしく魔法だ。こんな魔法で出迎えてくれるなんて。最高のお帰りなさいだ。
「お父さま。お仕事おつかれさまでした。冷たいお水をどうぞ」
お盆に載せたコップにはまだ半分ほど水が残っていた。
真夏だ。日が傾き、仕事を終えて帰ってもまだ暑い。これは助かる。
「気が利くじゃないか。ありがとう」
そう言って手を伸ばす。すると、次女が横から手を伸ばしコップを取ると、ゴクゴク飲み始めた。
「なにしてるの! それパパのでしょ!」
長女が叫んだ。もうすでにお父さまと呼ぶことを忘れている。
「ああ待て待て。ほんとうはのどなんか乾いてなかったんだよ」と私は仲裁に入る。
次女は純粋にのどが乾いていただけだ。なにせまだ一歳なのだから。
「パパ、カバンを持ちましょう」
「持ちましょう」
次女は姉の言葉を真似る。こうやって言葉を覚えるのだと感心していると、
「あなた。早く入ってきて。ちょっといま大変なのよ」
廊下の奥から妻の呼ぶ声が聞こえた。廊下の先はダイニングキッチンだ。
これは一大事と私は玄関に靴を脱ぎ散らかし、廊下を小走りで進む。ちらりと入った視界には妻のパンプスを挟んで小さな靴が並んでいた。娘たちが並べたのだろう。どちらも妻の横に寄り添うように並べられていた。
勢いよく扉を開けると、背の低い妻が踏み台に乗ったまま、冷蔵庫のうえに乗せていた大きなカレー鍋を手にして固まっている。
「いったいなにが起こったんだ?」
「足がつりそうなのよ」
「なんだって。そりゃ大変だ」
すぐに妻から鍋を受け取った、などということもあったな。と私は懐かしく思い出していた。仕事から帰り、玄関に入った私は西日を背に三角形の影をつくっていた。そうあのときのように。だけど、玄関に並ぶのは妻と私の靴だけ。
元気でいたずら好きだった娘たちが履いていた小さな靴は、少しずつサイズを変えて成長していった。小学生のころは足が速くなるという噂を信じて買った運動靴。中学生からはシャレた靴になり、高校生になるともう妻の靴と見分けがつかなくなっていた。
そしていまではどんな靴を履いているのか。それはわからない。娘たちが巣立ってずいぶんと時が流れた。
この玄関で、節分の日は豆まきをした。玄関に立つ私に娘たちは本気で豆を投げてきた。そのあとの掃除は大変だった。
私の誕生日。帰ると玄関で待ち伏せしていた娘たちから紙吹雪で祝ってもらった。もちろんそのあとの掃除は私がやった。
家族みんなで遊びに行くとき、玄関で靴を履く娘たちは笑顔でいっぱいだった。私も同じ顔をしていたはずだ。妻はいつも私と娘たちを温かい眼差しで見つめていた。とても幸せそうだった。
いろんな思い出がつまった玄関。
「あなた。帰ったのなら早くきて」
妻の呼ぶ声が廊下の先から聞こえた。
「すぐ行く」私は急いで靴を脱ぐといつもより大きな足音を立てて廊下を急ぐ。
ドタバタと鳴り響く自分の足音がなぜか目の奥を熱くさせた。
(了)