第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作 「気がつくと」池田裕理
気がつくと、玄関の前に立っていた。
自分の家の玄関ではない。見知らぬ家の玄関だ。
驚いて、足を後ろに退こうとしたが、全く動かぬ。呆然として立っていると、玄関のガラスの向こうに人影が見えた。
戸がガラリと開いた。
「いらっしゃいませ」
この世のものとは思えぬほど、美しい女が立っていた。整った顔立ち、均整のとれた身体。あまりに美しすぎて、作り物のようだった。女は着物を着ていた。
「どうぞ」
私は女に促されるまま、玄関に入った。
「こちらの部屋でお待ちください」
玄関の右にあった応接室に案内された。
椅子にかけながら、私は不安でしょうがなかった。なんなんだこれは。しかし、どうしていいかわからず、私は椅子に座り続けた。
「いやあ、お待たせいたしました」
扉を開け、恰幅の良い、上品そうな紳士が入って来た。
紳士は私の前の椅子に座った。紳士は私を見つめ、微笑んだ。
私は、何を言えばいいのかわからなかった。
「無理もありません」
紳士が口火を切った。
「私もそうでしたから」
「え?」
私は紳士を見つめ、きょとんとした。
「気がついたら、この家の玄関の前に立っていたのでしょう」
「はい。その通りです」
私は身を乗り出して言った。
「私もそうだったのですよ。気がついたらこの家の玄関の前に立っていた。何年前になるのかなあ。もしかしたら何十年も前かもしれないなあ」
「はあ……」
「この家には時間という概念がないのですよ」
「どういう意味です」
「言葉通りの意味です。この家の中には時間が流れていない。ですから私はこの家に来てから歳をとっていません」
「そんなばかな」
「そしてね、この家からは替わりの者が来るまで出られないのですよ。家のことは全てあの麗人がやってくれます。では、私は失礼します」
紳士は椅子を立ち上がった。
「どこに行くのです」
「どこって外ですよ。あなたが来てくれたから私は外に出られるのです」
紳士はにこにこしながらそう言った。
そして、応接室の扉を開け、廊下に出た。私は急いで紳士の後を追った。
紳士は玄関の靴箱から自分の靴を三和土に出した。
「この家に来た以来ですよ。自分の靴を履くのは」
紳士は靴を履きながらそう言った。
「では」
靴を履き終わった紳士はそう言って、玄関の扉を開けた。
「ああ、やっと外に出られた」
紳士は両手を大きく広げて言った。その後ろ姿には喜びが満ち溢れていた。
「待ってください」
私は慌てて自分の靴を履いて、玄関を出ようとした。
しかし、出られなかった。
「なんだこれは」
まるで玄関と外の境に、見えない厚い膜がぴったりと貼ってあるみたいに、私は玄関から外に出られなかった。
紳士は門までの敷石を悠々と歩いている。
「待ってください」
紳士にはもう私の声が聞こえていないのか、こちらを全く振り返ろうとせず、門をくぐり抜けた。そして右に歩き出し、見えなくなった。
「そんなばかなことがあってたまるか」
私は靴を履いたまま、応接室に戻り、応接室の窓を開けた。窓から出ようとした。だが、窓も玄関と同様に見えない厚い膜が貼ってあるかのように出られなかった。
「そんな……」
私はその場にへたりとしゃがみこんだ。
あの紳士の言ったことは真実だったのか。だとしたら私は替わりの者が来るまで、何年も何十年もこの家に閉じ込められたまま……。
どれくらいそうしていたのか、窓から入ってくる風が頬をなでているのに気がつき、私はふらふらと立ち上がった。
後ろを振り返ると、いつの間に立っていたのか、あの女が私を見つめていた。
女は私と目が合うとにこりと微笑んだ。その微笑みはまるで永遠の絵画のように美しかった。
(了)