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第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「レッスンが終わったら」紺文乃

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作文・エッセイ
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第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「レッスンが終わったら」紺文乃

 下校中、もし選べるなら誰の家の子供になりたいか?という話題になった。

「のぞみちゃんのお家!ママがすごく綺麗だもん」

「新築のお家がいいからまどかちゃんかな」

「りなちゃんはお兄ちゃん二人いるしゲームがいっぱいあって楽しそうだよね」

 友人達は次々にクラスメイトの名を挙げた。自分の家に不満があるわけではなく、隣の芝生が青く見えてしまう小学四年生なりの子供らしい願望。ゆりちゃんは?と聞かれても、そうだなあと言ってごまかしたのは、みんなが知らない人を答えてもその場を白けさせてしまうだけかも、と思ったから。

「私、山本先生の子供になりたい」夕飯の支度をするお母さんの背中に向かってぽつりと言った。山本先生は、ピアノ教室の先生だ。

「じゃあ明日、レッスンが終わったらそのまま帰ってこなくていいからね」とお母さんは動揺のない声で返してきた。

 翌日、学校から帰っていつものようにお母さんに教室へと送ってもらう。山本先生の自宅兼教室に到着して、お母さんは淡々とした顔でじゃあねと一言。私が頷き返すのを見届けるとするりと車を発進させて帰っていった。

「ゆりちゃん、元気ないの?」私が二つ目の課題曲を弾き終わると、先生が心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「あなたの好きな元気な曲なのに音色が弱々しいし、それに、いつももっとお喋りよ。」

 咎めるのではなく、優しく温かい口調。

「大丈夫、なんでもないです」と首を振り、もう一度、次は弾むような調子を心がけて演奏する。けれど、私の手指はすらすらと楽譜を消化しているだけで、気持ちが入っていない。先生の子供になりたいなんて私の独りよがりな願いだ、所詮。先生は独身で子供はいないけど、私を自分の子供にしたいなんて、思うわけない。でも、どうしたら。

 演奏を終え、ちょうど次の生徒が玄関のベルを鳴らして入ってきた。

「じゃあ次回までに、この部分を練習しておいてね」

 レッスンが終わると、教室に備え付けてある電話でお母さんに連絡するのが常だ。先生がお手本として弾いているのを横目に私は電話をかけたフリをし、玄関で靴を履いてそのまま座っていた。

 今度は生徒が弾き始める。教室の玄関でピアノを聴きながら迎えを待つこの時間がいつも好きだった。ずっと待っていられるくらいに。玄関はほんのりフローラルな感じの香りがして、異国の街の風景画が飾ってある。

 私はお母さんの子供でいることをやめたけど、先生の子供じゃない。今は誰の子供でもない、ひとり。でも、先生がいるこの教室の玄関でずっとピアノを聴いて座っていられたら、なんにも寂しくはないわ。

「あら、お迎え、まだなの。お母様お忙しいのかしらね」先生はそう言ってクッキーの小袋を私ともう一人の生徒にくれた。その生徒もレッスンを終えて帰り、私は先生と二人きりになった。

「電話、かけてないんでしょう。お母様と喧嘩でもしたの?」俯いてクッキーをぼんやり見つめていた私は顔を上げた。

「先生の子供になりたいって言ったら、もう帰って来なくていいって」

「まあ。先生の子供にって」先生は困ったように眉を下げて笑う。

「帰って来なくていいなんて、お母様の本音じゃないわ。心配して、きっと今にもお迎えに来られるわ」

心配。してるのかな。私、宿題もちゃんとやってるし、夕飯の片付けも手伝うし、テレビばかり観てはいないし。そんなに怒られるようなことはしてないつもりだけど、お母さんはいつも少しだけ機嫌が悪そう。今日だって、何食わぬ顔で私を置いて帰ったもの。私がヨソの子供になったってお母さんは何も心配じゃないし困らない。その時、玄関ベルが鳴った。固まったまま立ち上がりもしない私のそばから、ほらね、と先生は軽やかに玄関に下りてドアを開けた。

「すみません、お迎えのお電話、しそびれてしまいまして」

「いえ、こちらこそ、ゆりが長々とお邪魔してすみません」とお母さんはヨソ行きの申し訳なさそうな表情をつくっている。

「とんでもないです。ゆりちゃんとのお喋りが楽しくて止まらなくなってしまって。ね」

 私はどんな顔をしていいか分からなかった。

 帰りの車の中、お母さんは何も言わなかった。

 お母さんとお父さんは先に夕食を済ませていて、テーブルの上には帰って来ないはずだった私の分、しかも大好物のハンバーグがラップをかけられて置いてあった。食べながら、帰り際、じゃあまた来週ねと微笑んでくれた先生の顔を思い出していた。

(了)