第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「親を待つ」菅保夫
小さい島の生まれです。島は作ったようなまん丸な形をしていて、昔は鬼の手毬と呼ばれていたそうです。小さくて高低差もあまりない島なので、どこにいても海の匂いと波の音が聞こえてきます。
父はこの島で生まれ育った猟師で、穏やかな優しい人でした。背が高くて、他の漁師さんよりも大きかったです。それから一日中外で仕事をしているのに肌はあまり焼けていなくて、これは大昔の血筋に西洋人がいるせいなのだと、本当か冗談なのか言っていました。私も日焼けしづらく、顔の彫りも深いので、あながちウソじゃないかも知れません。
母は都会で生まれ育った人です。我が親のことではありますが、かなり美人でした。両親が結婚し、六年たって私が生まれました。私の前に兄か姉がいたけれど流れたと教えられ、幼い私は兄弟が海に流されてしまったのだと勘違いしていました。
母は水産加工の仕事をしていましたが、海の臭いが嫌いでした。海臭い、磯臭い、生臭いと、何かのキャッチフレーズのように言っていました。海の生き物は、食うのも出すのも海の中だから海が臭いのだと、それが母の持論です。でも魚が大好きで、なかでも焼き魚が一番の好物でした。島には猫がたくさんいます。主食が魚なので、もれなく生臭いです。母はときどき猫を捕まえてシャンプーで念入りに洗い、臭いを消すという妙なイタズラをしていました。
祖父母は亡くなっていて、私は鍵っ子でした。体が弱かったので、学校から帰宅すると親が帰ってくるまで寝ていることが多かったです。母は遅いと五時過ぎ、父は天候が悪くて船が出せないときでも漁業関係の仕事をしていたので、帰宅は母より遅かったです。
家の玄関に呼び鈴は付いていませんでしたが、父か母が帰ってくると口でピンポーンと言うのです。それが聞こえるのは玄関の引き戸がガラガラと開けられたあとなので、その段階で誰かが来たのはわかっています。ピンポーンと言うのは両親だけなので、声が聞こえた瞬間にやっと帰ってきたとホッとしていました。具合が悪いときはよけいに心細く、ピンポーンが待ち遠しかったものです。
ごくたまにでしたが、母は父と一緒に船に乗って漁に行くことがありました。そのときはなぜか帰りにケーキを買ってきてくれて、夕食後にみんなで食べるのが決まりごとのようになっていました。島の商店で売っている安いやつでしたが、美味しかったです。
その日は土曜日で、学校は半ドンでした。私は営業中に具合が悪くなりましたが、我慢していました。両親は二人で漁に出ていて、私が具合が悪いなどと言うと無線で連絡が行き、両親に迷惑がかかってしまうからです。どうにか半日やりすごし、家に帰りました。用意してあった昼食も食べられず、コタツに入ってじっとしていました。
玄関が開く音で目を覚ましました。でもピンポーンが聞こえません。名前を呼ばれていくと、そこには父の漁師仲間が数人立っていました。いつも私に笑顔を見せてくれるおじさんたちが、今日は表情が違っていて、何か悪いことが起こったのだと直感しました。
狭い家の中に近所の人や猟師関係の人、学校の先生たちや、警察と海上保安庁の人も集まっていました。両親は船ごと行方不明になっていたのです。ショックのあまりか記憶に自信がありませんが、私は誰かに肩を抱かれ、テーブルにはおにぎりやごちそうが宴会のように並べられていました。両親の船と連絡が取れず、レーダーにも写らなくなったそうです。テレビのニュースで、両親のことが伝えられていたのを覚えています。
何日間捜索が続けられたのか定かじゃありませんが、両親も船も結局見つかりませんでした。私は本土の親戚の元で育ててもらいました。両親が行方不明になったことで、いろいろなウワサが立って嫌な思いもしました。
両親がいなくなって、もう三十年が過ぎました。私は年に二、三度、島に戻ります。島の人口は私が子どもの頃と比べると半分ほどに減ってしまいました。島にいるのは長くても五日ほどですが、島の仲間たちと楽しくすごします。でも一番の楽しみは、家で眠ることです。
島の実家で寝ていると玄関が開く音が聞こえ、それからピンポーンと父か母の声が聞こえてくるのです。夢か幻聴か、心霊現象なのか、この家で寝ていると必ず聞くことができます。姿は見えませんが、両親に会えた気がしてとても幸せなのです。和は目を閉じたまま「おかえり」と言葉を返し、両親の気配を味わうのです。
(了)