第75回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「悠久屋書店」川畑嵐之
大都会にある大学生である私が実家に帰省したときのことです。祖父はすでに亡くなっていましたが、読書好きで蔵書がそのまま残っていました。それも今でいうミステリー、推理小説が好きで本を集めていました。
都会での大学生活は経済的に厳しいものがありましたから、祖父の書庫に入って、ついつい高く売れそうな本を物色していました。
何げにとった本が黄色い箱入りが印象的な江戸川乱歩の「幽霊塔」で、附 日記帳とあるから乱歩の日記がついているのかと思ったら「日記帳」という題名の小説でなんだと思いましたが、それはともかくなかは初版本でもしかしてとこっそり寮まで持ち帰りました。
帰ってネット検索してみると、その初版本は最高五十万くらいで落札されていることがわかりました。一気にテンションがあがりましたが、祖父の本をよくよく点検すると保存状態はよかったものの「日垣幸太郎」という蔵書印が押されていることに気づきました。
これでずいぶんさがってしまうかもしれないと落胆しましたが、それでもかなりの額になるのではないかと、蔵書印があることを包み隠さず写真つきで掲載してネットオークションに出品しました。五十万になるのではとわくわくどきどき期待して入札状況を見ていましたが、蔵書印がネックなのかそれほどあがりません。それでも数万円くらいにはなるだろうと期待します。
ところが突然高額の入札があって驚きました。目を疑いましたが百万円の入札があったのです。はじめ十万円のまちがいではないかと思いました。それでも高額だったのですが、もう一桁多いことは何度も確認しました。そのままタイムオーバーの落札となりました。
電子メールで本当に百万円でいいのですかと念を押したのですが、気にするふうもなく交渉は成立し、丁寧に梱包し、久野悠という人物の住所に送りました。何かの詐欺ではないかと一瞬思いましたが、そんなことなくお礼のメールと入金がありました。直後は狐に抓まれたような気分になったものです。
そんなふうですから久野悠という名前はひっかかっていました。どこかで見た記憶があるような気がするので、ネット検索してみると有名書店の会長の名前がでてきました。まさかこの人ではないだろうとスルーしようとしましたが、住所がどうもそれっぽいのです。
そのうちこんな高額を即入金してくれたのだから、この人にちがいないと思えてきました。でも、そうなればなぜここまで高額なのか気にかかるところです。おそらく十万でも余裕で落札できたでしょう。
久野悠会長のネット記事をしげしげと読んでいると、今でも東京神田神保町の書店で月曜の午前中店内を巡回するとありました。
気になり行ってみたのです。すると杖をついた会長がスーツ姿の若い女性をともなって現れました。思い切って声をおかけしたのです。最初は怪訝そうでしたが、事情をお話しするとすぐ柔和な表情をされました。
「でもあなたの苗字は蔵書印と違いましたね」
「そうです。祖父は婿養子に入って川畑姓になったのです」
「そうでしたか。ああ、それで。あなたにお話ししたいことがあるので一階の喫茶室で飲み物でもどうですか」と誘われました。
スーツの女性もふくめて三人で喫茶店に移動しました。そこで会長がお話してくれたのは私の祖父が幼き会長にあの「幽霊塔」を貸してくれて探偵小説にハマり、ついには本屋を創業して、本屋のチェーン店を展開し、今は息子に社長の席を譲って、孫の恵もそばについていてくれる。それもこれも本の楽しさを教えてくれた、あなたのおじいさんのおかげだと言ってくださったのです。
私はあっけにとられ、茫然としていると、「だから百万なんて安いものだったのですよ。ほとんどこの孫の恵がやりとりをしてくれたんですがね」と横の女性を見て微笑まれるのです。その恵さんは「そうなんですよ」とにこにこしています。
「それから悠久屋書店はどういう意味がこめられているかわかりますか」
「悠久は果てしなく長く続くこと。あ、お名前が久野悠さんでしたよね。そこからですか」
「もちろんそれもあるけど悠久には文字をひっくりかえして、キュウユウ、つまり古い友の旧友、という想いをこめた、つまりあなたのおじいさんのことをイメージしてつけたというのもあるんですよ」とおっしゃいました。
なんだか嬉しくって会長が書店に戻られる際にこう声をかけさせていただきました。
「会長さんが欲しいとおっしゃられたら別ですけど、もう祖父の本を売るのはやめます。私もミステリー、いや探偵小説を読みます」
「ああ、それがいい。おじいさんもそのほうが喜ぶでしょう」とにっこり微笑んでくださったのでした。
(了)