第75回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「絵本」田村恵美子
勝麿が待合室のソファーに座ると、「これ読んで」と息子の蓮が一冊の絵本を差し出した。表紙には青い服を着た小さな男の子がぽつんと立っている。
その日の朝、四歳の蓮が泣きながら起きてきた。右耳が痛いと言う。妻は早番の仕事で出勤した後だった。蓮を保育園に送ってから勝麿も出勤するつもりだった。しかし、勝麿にとって大切なのは何よりも蓮だ。彼は会社に連絡し、すぐに近くの耳鼻科へ蓮を連れて来たのだった。
小さな待合室は少し混んでいた。診察まで一時間以上は待つだろう。
病院に着くころには蓮は泣き止んでいた。しかし、「しゅこしイタイ」とまだ言っている。心配だ、時間がかかってもしっかり診察してもらおうと勝麿は覚悟を決めた。
受付で手間取っている間に、蓮がどこからか絵本を見つけてきた。勝麿が絵本を受け取ると、蓮は急いで勝麿の膝の上に上がった。
本当にかわいいやつ。自分の子どもってこんなにかわいいのか。ちょっとした蓮のしぐさや言葉に勝麿はあふれるような愛おしさを感じる。
蓮を膝の上に抱っこして、勝麿は周りに迷惑が掛からないよう小さな声で絵本を読み始めた。
「ぼくをわすれないでね
ぼくは、もうすぐとおくにいきます。
ほんとは、いきたくないんだ。
ぼくをわすれないでね。
まっしろなユキのやま、きれいだね
カエルがうたってるタンボ、たのしいね
ぼくは、ずっとわすれないよ」
北国の田舎で勝麿は育った。雪山や青々とした田んぼの絵に懐かしさを覚えた。
「ぼくをわすれないでね。
ドーンとひろがったはなび、ビックリした。
ピーヒャラにぎやかなおまつり つらかった。
ぼくは、ずっとわすれないよ。
ぼくをわすれないでね
大きな松の木がある中学校、行きたくなかった。
教室、体育館、校庭、すべてが苦しい場所だった。
ぼくは、ずっと忘れないよ」
ここまで読んだ勝麿は口を閉じた。しかし、目は続きの文字を追っていた。
『ぼくを忘れないでね。
きみたちに殴られて蹴られて、痛かった。
笑いながら君たちにいじめられて、悔しかった。
だから、僕は山田勝麿くんのことをずっと忘れないよ』
勝麿は絵本から手を離した。パサリと音をたて本が床に落ちた。
勝麿が中学二年生の時に彼は死んだ。もう十三年も前のことだ。
同級生数人が彼をいじめていた。勝麿もその一人だった。いじめはだんだんエスカレートしていった。暴言、暴力は当たり前になり、毎日のように金銭を要求した。そして、彼の遺体が川で見つかった。
自殺か事故か、それとも他殺か。町中を巻き込んで騒ぎとなった。加害者側の親、親族、関係者はあらゆる力をつかった。町ぐるみでいじめを隠した。誰もが口を固くつぐんだ。結果、死因は事故死となった。
その後、彼の両親はいじめを訴え、民事訴訟を起こした。裁判は十年経ち、いじめは存在しなかったという結果に終わった。
事件から十五年過ぎたころには、勝麿は落ち着いた生活を送り始めていた。町を離れ事件のことはすっかり忘れた。結婚し、子どもが生まれ、勝麿は新しい人生を楽しく送っていた。
蓮は勝麿の膝から降りて落ちた絵本を拾う。そして、無言のまま勝麿を見つめている。子どもとは思えないほどの無表情だ。
急に蓮の右耳からツツッと血が流れてきた。勝麿は心臓がバクバクしてきた。勝麿は思い出していた。そうだ、あいつの頭を蹴った時、こんなふうに耳から血が出たんだ。
「あの時みたいに笑わないの?」
冷たい声で蓮が言う。
勝麿の意識の底に封印されていた記憶は、全て鮮やかによみがえった。あの日、川原での出来事も。
生気のない目でまっすぐと自分を見る蓮。その目は川底から勝麿たちを見つめていた彼の目だ。
耳から血を流したままの蓮が言う。
「もう一瞬だってぼくを忘れないでね。ぼくはずっと、ずうーっと忘れないよ」
(了)