第75回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「恋文」織戸薫
断捨離とは、つくづく嫌な言葉だと、わたしは思う。不要な物を捨てるのだ、物への執着から離れるのだと、訳知り顔に言うが、本来人間とは、物に執着する生き物なのだ。思い切って捨てるのは、物ではなくて、人間らしさなのではないのか。
しかし、そうは言っても背に腹は代えられない。明日から老人ホームに入居する身では、与えられたワンルームに収納できる物以外は、捨て去るより他に道はないのである。
部屋に設けられている、洗面台、収納棚、クローゼットに入れるべき品物は、日曜日に子供達の手を借りて搬入した。しかし、これまで一緒に暮らして来た物達は、その殆ど全部を残して行く事に成るのだ。
そして、いずれ子供達が、売れる物は売り払い、売れない物はゴミとして処分するのだろう。しょせん人の愛着なぞ、他人にとってはゴミにすぎないものなのだ。
妻が凝っていたインテリア。二人で旅行に行っては買い集めた陶磁器の茶碗、皿、ぐい飲み。そして、他人が見ると驚く大量の書籍だ。
生来読書好きのわたしは、これまで購入して来た書籍を、壁一面の大型書棚に陳列している。古い物はそのつど処分して来たのだが、残っている物だけでも、優に千冊は下るまい。読み返すことなぞ決して無いのだが、本に囲まれていると落ち着くのだ。これらの書籍も、わたしが去った後は、ゴミの山と成るのだ。
今から、わたしが入居準備として最後にしようとしているのは、老人ホームに持参する本を選ぶ事だった。書棚に並んでいるのは、その殆どが時代小説やミステリーだ。若い頃に耽溺した純文学は、僅かしかない。わたしは、書棚に並んでいる本達の背表紙を、一冊ずつチェックしていった。
おや?
わたしは、目を眇めた。一冊だけ場違いの本が、肩身が狭そうにひっそりと佇んでいる。井上靖の『あすなろ物語』だ。わたしは思い出して頬を緩めた。
雑誌『ボーイズライフ』に抜粋掲載されていた『あすなろ物語』に、中学生のわたしは魅了された。あすは檜に成ろうとして果たし得ない、あすなろの悲哀。まだ触れぬ女性に憧憬する少年。思春期の魂を激しく揺さぶられたわたしは、乏しい貯金をはたいて文庫本を購入したのだった。
「本を貸して貰えませんか?」
一学年年下の彼女は、恥ずかしそうにわたしに言った。本を貸して貰う事は、当時の男女間のやりとりで、会話のきっかけを作る為の手段として、流行っていたものだった。
「うん。いいよ」
わたしは、三冊しか持っていなかった中から『あすなろ物語』を選んで、彼女に渡した。
「すみません。せっかく貸していただいたのに、汚してしまいました」
その一週間後に、彼女はわたしに頭を下げて言った。
「これ、新しい本を買って来ました。代わりにお返しします」
彼女は、本屋のカバーに覆われたままの文庫本を、わたしに差し出した。
「いや、ちょっとくらい汚れたって、構わなかったのに……」
彼女は、恐縮するわたしに、新しい文庫本を押し付けたのだった。
そうだったな。
わたしは、笑いながら、文庫本をぱらぱらと捲った。五十年前の本だ。ページは黄ばんで、活字が読み辛くなっている。
その時、ページの間から、一枚の紙片が、はらりと落ちて来たのだ。
ん? これは何だろう?
わたしは、落ちた紙片を拾い上げた。そこには文字が認めてあった。
『貸していただいて ありがとうございました。とても、おもしろかったです。これからも、おつきあいして頂けますでしょうか?』
女子高校生の文字が問い掛けている。セーラー服を着た妻が、小首を傾げて、わたしの返事を待っている。
おやおや、これはこれは。ラブレターを半世紀も経って読むことに成るとはな。
「はい。喜んで、お付き合いさせて貰います」
わたしは苦笑して、紙片に呟いた。
老人ホームには、この一冊だけを持って行く事にしよう。これを、妻の位牌の側に置いてやろう。
「まあ。今頃に成って、やっと読んでくれたのですか」
妻は、きっと呆れ返る事だろう。千冊の本は置いて行くが、この一冊があれば、落ち着いた気持で暮らしていけそうだ。
(了)