第75回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「日記」志水久之
【米寿おめでとう 金山順一さん】と書かれた全紙が貼ってある。その前に彼は、神妙な顔でいる。まるで、保育園の誕生会のようなお祝いの会が終わった。ひ孫ほどの若い女性から渡された表彰状を大切に持って自分の部屋に戻ったところだ。小包が届いていたが、今は、それを開く気にならなかった。ベッドに横になった。何だか妙に疲れた。でも、今日の日記は、何ページも書くことになるだろうと、金山は思っていた。
彼が日記を書きはじめたのは十二歳のときだ。最初の日記帳は紙が黄ばんで文字もうすくなっている。
記念すべき初日は、たったの一行しか書かれていない。
〔8月15日 せんそうおわった――川でおよいだ〕
それ以来、ほとんど毎日書き続けた。十数回、住むところは変わったのだが、そのつど、日記帳は増えていった。
その後、毎日書いてあるものの、まるでメモのようだ。
〔……父かえってこない〕
〔……きょうも もどらない〕
金山は、自分の父親が朝鮮半島の出身だと、この頃知った。その父が妻と息子を残して行方知れずになった。
その年の冬のある日、父の無残な遺体が見つかる。この日の日記はノートの大半を使って書かれている。
二冊目と三冊目の日記帳には、中学での三年間が克明に書かれている。ひどいイジメに遭って孤独だったことが分かる。ただ一人、谷君という名だけが何度も現れる。
唯一の友人の親が経営する谷製作所でアルバイトから始まり、中学校を卒業したとき、そのまま社員となった。
谷製作所は、自転車の部品を作る、全社員が十人のささやかな工場だ。金山はここで無我夢中で働いた。この時期の日記の内容は仕事のことばかりだ。
ただ、大学に進んだ谷君が交通事故で亡くなった日の記述は、まるで一編のドキュメントのようだ。
これに比べると、三カ月後に母親が自殺した日は〔母が自死した……理由はわかる〕としか記されていない。
金山が二十七歳のとき、谷社長から提案があった。
「順君、私の息子にならんか?」
「え? 社長、何をおっしゃってるんですか?」
「……私も君と同じ全くの独り身だよ」
この日の日記には、迷い悩む金山の心情と谷社長の一言一句までが細かく記されている。
この三年後、谷製作所は従業員が百人に迫り、新工場が完成する。金山は、事実上会社の中心となって働き、会社の経営は右肩上がりに発展していった。
昭和四十七年、新入社員の若い女性の方から、四十歳の新専務に積極的に結婚話をすすめてきた。彼も十分その気になっていた。しかし、彼女の両親が興信所で彼の実父の出生を調査したため破談となる。そして、婚約者の女性は自殺してしまう。この件は、その日の日記にほとんど書かれていなかったが、一年ほど後になって、彼はノート数ページを使って記している。
この後の日記帳の中身は、ほとんどが仕事に関わることばかりだ。ただ、社長が八十歳で病死した日には、義父への想いが切々と書かれている。義父を亡くした彼は、戸籍上でも血縁でも完全な独り者となった。
しかし、日記には〔私は孤独ではない〕と書いた。
昭和六十一年、新社長が率いる谷製作所は、自動車部品製作に移行し、飛躍的な躍進をする。さらに、バブル後の不景気もワンマン経営で乗り切ったのだった。この後も彼はみごとな経営を続ける。
全く患ったことのない彼は、会社を引退する考えがないまま八十歳を迎えた。この二十年間の日記は、まるで経営日誌だった。
平成二十七年、八十三歳。自分ひとりが百五十歳まで生活できるほどの財が蓄えられたことを知って会社を辞めた。
老人施設で単調な毎日を過ごすことになる。その頃の日記の内容は、自分を見つめる文章に変化する。
過去何人もの親しい人たちの死をふり返っているうち、自分自身の(死)を考え、怖がるようになっていった。
〔老人がぼけるのは、迫る死の恐怖からにげるための神さまの贈り物だろう……だが、自分はぼけていない……怖い〕
部屋に戻った彼は、届いた小包を開いた。文庫本が一冊と封筒があった。その本の表紙には(八十八年の日記)とあり、校正用と赤印が押してある。新聞広告『あなたの本をつくります』を見て半年前に依頼したものだ。
彼は、その本を開くこともなく手のひらにのせた。
その軽さが彼にとって意外だった。
「おれの人生って!」外に聞こえるほどの大声を出した。
その瞬間、彼は死への恐怖から完全に脱することができたのだった。
(了)