第75回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「おばさんにもらった本」水野祐三子
深夜一時の病室は蛍光灯が眩しく輝き、窓の外が漆黒なものだからこの部屋だけ浮きあがっているように思える。ベッドの上でおじさんは僕が知っている頃の半分の薄さで横たわり、ベッドサイドモニターの機械音だけがおじさんが生きていると教えてくれている。
「佐代子さんは? どこに行ったの?」
付き添いのベッド脇のパイプ椅子の上で体をねじり、不意に母さんが声をあげた。
「こんな大事な時に! 浩司、捜してきて」
母さんはまるで僕が悪いみたいに睨みつけた。腕組みをして壁に寄りかかっていた父さんは僕に近づくと、「悪いな」と呟いて視線で僕の背中を押した。父さんはいつも母さんの感情のフォローをしようとするけど、実はできていないんだ。でも、少し助かった。「今夜が山と医者に言われた」と目を吊り上げた母さんと、病院に駆けつけて8時間。僕は、明後日から始まる期末試験の日本史の暗記が気になってきていて、一方でおじさんの葬儀とかになれば期末試験は免除か追試になるかもしれないと計算している自分がいて、そのことが気持ち悪かった。
病院の廊下は非常灯だけが緑色に灯っていてどこか幻想的だ。おばさんを捜すことにたいして気合が入っていなかった僕がゆっくりと首を左右に振ってみると、案外すぐそばのベンチにおばさんは座っていて、しかも分厚い文庫本を熱心に読んでいたからさすがの僕でも驚いた。近づいておばさんに声をかける。
「おばさん、母さんが呼んでます」
おばさんは本のページから目を上げない。
「何か変わりがあった?」
「いや、特にないですけど」
おじさんとおばさんには子供がいない。詳しい馴れ初めは知らないけど、若い頃に見合い結婚して二十年くらい、でも趣味が読書だなんて聞いたことはない。おじさんはどちらかと言えばアウトドアなイメージだし、この前に会ったのは二年前のお正月、二人ともお酒に顔を赤くして、快活だった。僕はと言えばその時も、早く親戚達から解放されてスマホでプロスピの続きをやりたかったんだけど。
おばさんは本を凝視している。読んでいる箇所から見て、物語はそろそろクライマックス、というところか。背後でドアの滑る音がして、母さんの声が降ってきた。
「佐代子さん! 何してるの! 戻って!」
おばさんはちらりと母さんを見て、すぐに本に目を移す。
「すみません、お姉さん。この推理小説、ちょうどいいところなんです。あと少しだけ」
「小説? こんな時に? 遼一がもうすぐ……もうすぐぅぅぅ」
父さんが後ろから母さんの肩を抱く。
「声が大きいよ。戻らないと、な。佐代子さんも、ね」
力が抜けたように病室へ戻る母さんの、両手は握りこぶしだった。
おばさんは小説のページをめくっている。僕も病室へ、と思ったりしたけどなんだか、ここを去ってはいけない気がして、おばさんの横でぽっかりと空いているベンチを見てから、少し間を空けておばさんの隣に座った。
「本、読んだりすることある?」
目は紙面からそらさずに声をかけられたので、僕は居心地悪く尻を動かした。
「国語の授業の時くらい、です」
「中学、3年、だっけ?」
「2年です」
「これからだねぇ。楽しいねぇ」
おばさんの目が文字を追う。本のページの、上から下へ動いている。
「もうすぐ、犯人が分かりそう」
良かったですね、と僕が言おうか迷っている隙間に、おばさんの声が聞こえた。
「分かってしまうわ。終わってしまう……。どうしよう」
僕は一瞬、意味が分からなくて、かえって遠慮もなくおばさんを見つめてしまった。
おばさんの目は本に落ちたまま、もう眼球は動いていない。と思ったら、ぽた、ぽた、雨が降り始める時と同じ分量で紙面が濡れはじめた。
「もう逃げられないね。いつかこの時がくるって、分かってたことだけどね。どうしても、受け入れることができない現実って、ある。そんな時に」
おばさんは本を閉じて、顔を上げた。目は乾いていた。涙なんてはじめからなかったみたいに。おばさんは僕の胸に本を押し当てた。
「代わりに泣いたり、怒ったり、困ったりしてくれるの。忘れさせてくれる」
おばさんはベンチから立って、病室へ向かう。おばさんはきっと、犯人が分からないままなのだろう。そして、それで良いのだろう。
おばさんが病室に帰っておじさんの手を握って少しの時間が経って、それから「わかっていたよ」と言うみたいに、おじさんのベッドサイドモニターがツーと長い音を立てた。
(了)