阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「西ノ九里島」ダルシン
「西ノ九里島まで行って欲しい」
男はそういった。
おそらくその辺にいる漁師仲間から俺の話を聞きつけてやって来たのだろう。そんな仕事を引き受けるのは俺くらいだからだ。
俺はすっかりしわが深くなった顔をその男に向けた。
さり気なく男の様子を伺ってみる。見たところ三十代くらいか。身なりはちゃんとしているようだ。疲れて目が虚ろというわけではない。
潮風に髪をなびかせた姿はさわやかであるといってもいいだろう。
男がいった西ノ九里島はここからだいたい××××の位置にある小島だ。一体そこに何があるのかは俺は知らない。上陸したことがないからだ。そこにはかつて軍隊の基地があったとか、古代の遺跡があるとかは聞いたことがない。貴重な鉱物資源が採れるとか、学術的に貴重な生物が棲息しているとかも、聞いたことがない。貴重ではないが、そこにはうさぎがたくさん住んでいる「うさぎ島」とか、猫がたくさん住んでいる「猫島」とかで、癒やしを求める人たちの安息の地だとか、そんな話もない。それとも知る人ぞ知る絶好のダイビングスポットなのか。
その島に一体何があるのかは知らない。それでもごくごくたまにだが、その島に行きたいという者がやって来る。
この男のように。
その島へは船でしか行くことはできない。行く人が極めて少ないため、定期便はない。そうなると船を持っている者に連れて行ってもらうしか手段はないのだ。船を持っていれば誰でもいいわけでもない。皆が島の正確な位置を知っているわけではないし、それに・・・。
だから、これは俺の役目なのだ。
俺は答えた。
「いいよ。払うものさえ払ってもらえば出すよ」
船を出すにも金がかかる。これだけはもらっておかないと。
俺がいった料金を男は財布から取り出した。ブランド物のきれいな財布だった。
「波も穏やかだし、天気もいい。すぐに行こう」
俺たちは出航した。
西ノ九里島まではだいたい五十分はかかる。
俺は船を操縦しながら男にそれとなく話かけた。
俺の質問に対する受け答えはちゃんとしていた。
男は会社員で会社の経営状態はまずまずのようだ。本人の方も同期から遅れをとるようなこともなく、ごく平均的な出世をしているようだ。
時折ハハハと笑い声をもらす。わざとらしさや嫌味のないさわやかさがあって、好印象だ。取引先とや、会社の同僚たちとも円滑にやっているだろうことを思わせた。
俺は様子を伺いながら、いよいよ一番訊きたい質問を投げかけた。
「西ノ九里島には何の用事で行くんだい」
男はハキハキとした口調でこういった。
「ええ。行かなきゃいけないんですよ」
同じだ。
前の奴も、その前の奴も、そのまた前の奴も。
俺は船を止めた。
目的の場所についたからだ。
それを男に告げた。
「そうですか。ありがとうございます」
男は俺が見ている先をまっすぐに見て、さわやかにそういった。
当たりをキョロキョロ見渡すこともない。普通だったらそうするだろうに。何故なら。
そこに島なんてないんだよ。
海しか広がってないんだ。
十歳の年にじいちゃんにここに連れて来られた。そこで初めて聞いた話だ。
《ありもしない島の話》
じいちゃんも、じいちゃんが十歳のころに、同じようにじいちゃんから聞いた話らしい。
「西ノ九里島まで行って欲しい」
そういって訪ねてくる人がたまにいる。そしたら快く引き受けて、この場所まで連れて来いと教わった。そこに島なんてないが、必ずここに連れて来いと教わった。この場所をしっかりと覚えろと。
男は立ち上がると、俺が見守る前で、服のまま海へと飛び込んだ。
そのまま海深くへと潜って行って、戻って来ることはないのだ。前の奴も、その前の奴も、そのまた前の奴も。かれこれ十五人くらい連れて来たが皆同じだよ。
これは一体何なんだ。
(了)