阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「孤島」太田奈津子
天界に向かおうとする僕をパチパチと爆ぜる薪の小気味よい音が「まだ行ってはだめだ」と引き止める。激しく揺れるオレンジ色の炎を瞼の向こうに認め、僕の脳は覚醒した。
「起きた、か」
低くしわがれたその声に、僕は自分の置かれている状況のいちばん知りたかったところを理解した。
――死んでない。
「食べる、か」
八十か九十か、あるいはもっと上か。長い髭が顔の下半分に絡みついたまるで仙人のような風貌の老人が僕の顔を覗き込んでいる。老人は炎の中から香ばしく焼けた魚を取り出し、熊笹の葉の敷かれた石の上に置いた。鯛のようにも見えるがよくわからない。
僕は傍らにあった竹筒の水を一気に飲み干し、魚にかぶりついた。
「うまい……」
はらわたの苦みが時折口のなかに不快感をもたらすが、それさえ瞬時に美味なるものに昇華するほど生きている喜びに包まれた。
「ルザイ、か。」
僕が落ち着くのを待ちかまえていた老人が聞いてきた。
「ルザイ? 僕は大学の仲間とヨットサーフィンをしていて、海に転落し……」
その先の記憶はない。はっとして顔を上げ、周囲を見た。
見渡す限りの青い海、青い空。ここが大海原に浮かぶ孤島だと気づくのに少しの時間も必要なかった。
三日三晩をかけて僕はその人の話を聞いた。延々と繰り返される脈絡もとりとめもないおとぎ話のような話。はじめは妄想にとりつかれているのだろうと憐みと苛立ちを覚えながら聞いていたが、やがてそれが僕が受け止めなければならない現実であると理解した。
老人の話を整理すると、ここは関ヶ原の敗戦で八丈島に流罪(ルザイ)になった宇喜多秀家を慕って追ってきた旧臣とその家族たちが遭難し流れ着いた島のようだ。すべての荷と多くの仲間を失った彼らはこの島に定住することを決め、細々と命を繋いできた。しかしその命の灯火もこの老人を最後に消えようとしている。
「つまり僕は四百年以上孤立していた島に流れ着いたということなのですね」
「四百年……」
老人は俯き黙り込んだ。そして僕には解読不可能な不思議な記号を砂浜に書き続けた。
「いずれにしても僕はここにとどまることはできない。帰る方法を見つけなければ。」
その時の僕は、この老人がまた一人ぼっちになってしまうことなど考えもしなかった。
体力があるうちに一刻も早くこの島を出よう。何しろ四百年もの間発見されることのなかった島なのだ。悠長に助けを待ってなどいられない。
老人は器用な手つきで僕のいかだづくりに手を貸してくれた。というよりその工程のほとんどすべてを彼が担ってくれた。これまでにもこうやって島を出ていく人を見送ったことがあるのだろうか。彼自身はこの島を出ようと思ったことはなかったのだろうか。
僕は僅かな水と干し魚をいかだに積むと、
「あなたは向こうから流れてきた」
と老人が指さすほうへ漕ぎ出した。命の期限は一週間もないだろう。でも、やるしかない。島を振り返ると一筋の煙が緩くのぼっているのが見えた。贐の狼煙を上げてくれたのだろうか。しかし煙は空に吸い込まれる前に儚く消えた。
―贐なんかじゃない。別れの挨拶だ。
あの人はきっとそう遠くないうちに、たったひとりで土に還るのだろう。
そして僕も――。
照りつける太陽とどこまでも深い海の間で僕は気を失った。
僕は自分の体験を誰にも話さなかった。いや、話せなかった。どんなに調べてもあの島の存在は確かめられなかったし、宇喜多秀家を追い消息を絶った旧臣がいたという史料も見つけることができなかったからだ。そして僕は日々の暮らしに追われるなかで、しだいにその出来事を思い出さなくなっていた。
あの老人が砂に書いた不思議な記号が秀家の旗印の「兒」の文字であると気づいたのは何年もたってからのことだ。その瞬間、僕は強烈なフラッシュバックに襲われた。
名もなき島に生まれた名もなき人。
彼の辿った人生を語る者はなく、
その最期を知る者もない。
でも彼は叫ぶ。
この島を忘れないでくれ、
この命をおぼえていてくれ、と。
彼が再び上げた狼煙を僕は誰に伝えればいいのだろう。どうすれば彼のいのちの証し人となれるのだろう。
(了)