阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「渡し舟」本間文袴
ゆるやかな坂の向こうには、川があった。光を反射する水面が、風を受けて僅かに細波を立てている。川幅は大きく、対岸が遠くの方に見えた。
不思議と辺りは静かで、川遊びをするような子供の姿も見えない。河原に植物の類は生えておらず、鳥の一羽も見かけなかった。
川の流れを目で追っていると、前方に人影が見えたような気がして、そちらへ視線を向けた。
スーツ姿の男性が、鞄を手に歩いている。
辺りの砂利に少し足を取られながらも、しっかりとした足取りでどこかへ向かっているようだった。
水打ち際に沿うようにして進むその背中を何とはなしに追っていると、不意に男性が足を止めた。見ていると、何やら川の方へ向かって声をかけている。つられて川を見たが何も見えない。男性はまだ何かを話している。
これはあまり良くないのではないかと思い、足早に近寄った。男性が精神的に消耗でもして、幻覚か何かが見えているのかと思ったのだ。
川に飛び込むようであればその前に声をかけようと考えながら間近まで行くと、男性の声が聞こえてきた。
「そこへは、お幾らぐらいかかりますか」
いよいよ声をかけようかと考えていると、突然川の方から声がした。
「お気持ちで結構ですよ」
驚いて目をやると、いつの間にか小舟が目の前にあった。
小舟は古風な渡し舟のようで、壮年の船頭が乗っている。船頭はこちらに視線を寄越すことなく、男性に声をかけた。
「お客さんが良いと思えば、それで結構です」
舟は川の中で小さく揺れている。
「今の手持ちは、これだけしかなくて」
そう言って、男性は財布を引っ繰り返して中身を全て出すと、それを船頭へ渡した。船頭は手を伸ばして受け折ると、金額を確認することもなく、腰につけた巾着いしまい込んだ。
「これで結構です。では、乗って下さい。手を貸しましょう」
男性は船頭に手を引っ張られるようにして舟に乗ると、静かに腰を下ろした。
「参ります」
一言そう言うと、船頭は舟を出した。舟はゆっくりと動き出し、流れを横切るようにして進んでいく。対岸まで行くのだろうかと思っていると、前触れなく強い風が吹いた。
思わず目を瞑り、次に目を開いたときには舟は消えてしまっていた。
辺りを見回してみても、水面が波打つばかりで何も見えなかった。
少し背筋が冷えたような気がして、その日はそのまま家に帰った。
その後、雨の日が数日ほど続いてしばらく外へは出られなかったが、頭の中では絶えず例の舟のことを考えていた。理解が追いつかず、ひょっとして白昼夢でも見たのかとも思った、それにしてはあまりにもはっきりとしている。事件や事故の可能性も考えたが、それらしい新聞記事は見当たらなかった。
雨が上がったのを見計らって、もう一度あの川へ行くと決め、家を出た。
川は雨のせいで増水していた。
数日前に見たときよりも流れが速く、濁っている。あの舟がいた場所を目指していると、川の向こうに何かがあるのが見えた。川の上に出ている霧に隠れていてよく見えないが、何か大きなもののようだった。岸辺に近づいて目を凝らすと、ようやくそれが何なのかが分かった。
川の向こうは、大きな島になっていた。
まるで対岸など始めからなかったかのように、その島はそこに鎮座している。取の上の方は霧に呑まれ、見ることができなかった。
数日前には確かになかった光景に呆気にとられていると、不意に声がかかった。
「島に渡りますか」
見ると、そのときの船頭がこちらを見ていた。
「あの島は、いつできたんですか。この前まではなかったのに」
川の中に一歩足を踏み入れてそう尋ねると、船頭は小さく笑った。
「ずっとありましたよ。見えていなかっただけです。この前もね」
「この前の人は、あの人はどうなったんです」
「お元気だと思いますよ」
「あの島は、何ですか」
「行けば分かります。悪くないですよ」
船頭は少し首をかざして見せた。
「島に渡りますか」
手持ちは小銭しかなかったが、船頭は気にしていないようだった。
「参ります」
舟に乗ったあと、船頭は一言だけそう言った。
(了)