阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「平和島」笠倉薫
ここは島には島だが全然平和ではない。目を瞠るような深い碧に珊瑚礁が美しい海がその眼前に広がっている訳ではない。愛を歌いプルメリアの花飾りをそっと捧げてくれる女性が待ち受けているわけでもない。目の前に広がるのはスマホや新聞片手に唸り声をあげながら予想を繰り広げている人々の群れである。場所は京急沿線。落ち着いた鈍い赤の車両は行く道が例え曲がっていようとなんのその、そのスピードを緩めずに自分が行く道をひたすらに突き進む。速さこそアイデンティティと言わんばかりのその走りは一乗車客としては些か不安を感じるほどだ。レールがもう限界だと金切り声を上げていても風を切って走る。通勤で慣れていたとしても、カーブの時はたまに足だけでは踏ん張れない時がある。そこがいい。鉄道を愛する人たちは言うけれど、その赤い車両に乗って、私たちの客がやってくる。いや、やってきていた。
二〇××年。その時は気軽に外を出歩けていた。もちろん競馬にも。入場客は一昔前と違って多種多様で老若男女全ての人種が出そろっていて、ナイターの席もあるから、カップルにも人気だった。ライトアップされた場内と鍛え上げられた馬の肢体、そして発せられる歓声が非日常な夜を演出するのであろう。その環境に酔うのは何もカップルだけではない。様々な人間がその状況に酔いしれる。しかし酔えない男もいた。それは先生と呼ばれた男だった。先生はスーツを着て場内をぼんやり眺めていた。こういう客は先生に限らずよく見かけた。私の仕事は主に場内の清掃で接客が主な業務ではなかったから、直接関わることはなかったのだが、近くを清掃することもあったから見知っていた。心配ではあったが、こちらが何か出来るわけでなし、触らぬ神に祟りなしと黙々と清掃業務に励んだ。 それでも時折客に声をかけられることがあった。あれはレースが始まる前、パドックの前に群がる客を尻目に軽食のスナックの袋を清掃している時だったと思う。
「ここも掃除頼むよ」
人が密集した拍子に押されて手から取りこぼしたのか、ジュースの残骸が落ちていた。手早く清掃すると、礼の代わりか背中を二回叩かれた。五十過ぎ位の男性客だった。その人は競馬場で何回か、いや何回も見かける人だった。年代物の着古した上着を着ていたがどうやら綺麗好きらしく、場内に汚れを見かけると私を呼んで、清掃を頼んだ。指示された通り、清掃を終わらせると
「いい仕事をするねぇ」
と、やはり肩を叩かれた。髪をオールバックにしていて、眼鏡の奥の瞳にどこか愛嬌を滲ませた男だった。たまたまだろうが、その男とも鉢合わせることが多く、その男が先生とつるんでいる場面を見かけた。
「先生、調子はどうよ。」
「駄目だね。最後の最後で不祥事起こした」
「お、いい尻。先生これはアイツがくるよ」
「もう手遅れだ。」
「いいんだよ、代わりにお馬ちゃんが稼いでくれるんだから」
微妙に食い違っている会話を耳の端に捉えながら、清掃を進めていた。
「家内にも言えない」
「三連単だと何千万だ」
先生と呼ばれた男は話が聞こえてないようにブツブツ呟いていたが、その男は気にも留めずに予想に精を出し、精気のない先生の手を引いて馬券を買っていた。先生の瞳は暗く沈んでいたが、男はまだ途方もない夢を語っていた。
「先生、俺たちは何を買っているんだと思う?」
「馬券じゃないか」
「夢だ」
先生はその言葉に落としていた視線をやった。
「振り向くな、振り向くな。後ろには夢がないってね」
やっていることはまさしくギャンブルだが、そこには人生がある。あの男の目にはまだ夢が映っているんだろう。レースが終わった。耳の端で捉えた数字は万馬券ではなかった筈だが、酒を少し飲むくらいは当たったはずだ。先生の負債が一気に返せないとしても、あの夢を語る男と飲んで、先生のこころの重みが少しでも軽くなるといい。ここは治安としては不穏とも呼べる場所ではあったが、夢があった。だがしかし。
レースが終わった後、夢の痕とも言える白い馬券をただひたすらに掃除する。熱狂に満ちたあの日々も今や遠い。人々の熱気も、嬌声も、涙も笑いもそこにない。あの愛嬌のある男に肩を叩かれることもない。人々が同じ場内に通い、一発逆転を夢見るあの日々こそ平和だったのだ。
独りごちて、馬だけが夢を追い続ける人のいない場内を思った。
(了)