第72回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「からあげください」叶多マサ
向かいからすれ違う人たちと、いつもより距離を取り合いながら家路を急ぐ。玄関に入ると洗面所に直行し、マスクを慎重に捨て、丁寧に時 間をかけて手を洗う。この生活にも少しずつ慣れつつある。
コンビニ袋から、夕食に買ったサラダとおにぎりと好物の、
「えぇ……」
レジで一緒に注文したはずのからあげが、どこにも見当たらない。どうやら、入れ忘れられてしまったようだ。
「また、あの娘か…」
腹が立つのだが、もう店に取りに行く気力はなかった。
「どうしてこうなっちゃうんだろうな…」
陽子の心は些細な事でもすぐに傷つくぐらいに、繊細で弱っていた。
新型コロナウィルスの急激な感染拡大は陽子の生活にも暗い影を落としていた。
三カ月更新の派遣社員として勤務している会社からは、社員はリモートワークでの業務をするが、派遣社員はその体制が整えられないとの理由で、先週から有給を使っての自宅待機を命じられている。恐らく、この先の契約更新は厳しいだろうと派遣会社の担当者からも言われている。最近は求人も少なくなっていると聞く。もしかしたら、すぐに働くところはみつからないかもしれない。
三十代半ば独身で、友だちもほとんどおらず、家族との縁も薄い。これといった仕事のスキルもなく、貯蓄もわずかしかない。天涯孤独な将来への不安を漠然と抱えていた。
そんな日々の中で、人と関わり合う場が、今では唯一コンビニだけだった。
新しい生活様式が提唱され、常にマスクをしての会話が日常的になった。そのことで、いかに対面の会話において、口の動きを読むことが大事なのかを実感させられている。
先日もレジ前で、いつものようにホットスナックの入っているケースを見ながらからあげを注文した時だ。
「……あと、からあげを下さい」
すると、店員はなぜか後ろの棚からたばこを出して渡してきた。
「えっ……? 違います。か・ら・あ・げ」
さっきよりもはっきりと言うと、店員は無表情にからあげを取り出しレジを打った。
私にからあげを食べさせない嫌がらせなのか? と思うぐらいに、同じような対応が最近続いていた。その時は、決まってレジを担当するのが、この店員だった。
大学生だと思われるが、子供っぽさの残る女の子で、メガネの奥の目はいつもぶすっとして見え、悪気はないのだろうが、どこか人を苛つかせる表情だった。
彼女をこのコンビニで見るようになったのは、春前頃だっただろうか。
彼女がアルバイトに慣れないうちに、世の中はこの未曾有の状況になってしまい、世の中からも、そのコンビニからも余裕がなくなった。常にマスクをすることで、彼女の不愛想な表情はより際立っていた。
いつも彼女はビニールカーテンとマスク越しの接客に苦労しているように見えた。
客の言葉を何度も聞き返しているところや、あり得ないような聞き間違えをしているところを目撃することもあった。
客に舌打ちされても、文句を言われても、当の本人は特に気にする様子でもなく、淡々と仕事を続けていた。
ある日、陽子がいつものように店に行くと、レジで大声をあげる中年の男性がいた。店内中の目がそちらに注がれる。
「違う! 俺はショートホープって言ったんだよ。からあげなんて頼んでない。お前ふざけんなよ。なんだその態度は。馬鹿にしてんのか!」
言い終わると同時に、男性はビニールカーテンの下から小銭を彼女に投げつけて、商品をふんだくるようにして店を後にした。
店内には一瞬、緊張が走った。
陽子は心配になって彼女の様子を見る。後ろに並んでいた、よく見かける常連のおばあさんがレジに進み、
「偉そうにね。何様のつもりかね。」
と、ぼそっと声を掛けていた。彼女の目の奥が初めて一瞬やわらいだように見えた。
陽子には、社会を包むどうしようもない不安や閉塞感を、彼女が一身に黙って受け入れているような気がした。
いつものようにレジでからあげを頼み、彼女にレジを打ってもらう。ふとレジ横の求人情報誌に目が留まり手に取る。陽子は、今までより少し顔を上げて家まで帰った。
マスクを取って、手を洗い、お楽しみのからあげを袋から出そうとしたが、なぜかピザまんが入っていた。そのまま一口かじってみる。ピザまんもなかなか美味しい。
(了)