第72回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「見知らぬ旧友」平井文人
暮れの小さなホテルのロビーは閑散としていた。宴会の看板も二つだけで、寂しげである。
「やあや、おまたせおまたせ。久しぶり」と場違いな大声でマスク姿の男が、ロビーのソファーに座っている私に近づいてきた。私の待ち人は女性なので、なんと答えていいかわからず、隣に勢いよくどすんと乱暴に腰かけた男を、見続けていた。
「すまんすまん、すっかり忘れていたよ。おまえさんが飲み代の支払いを立て替えてくれてたなんて、申し訳なかったよ」
私は相手の酒の匂いのするガラガラ声を避けながら、時節柄マスクをはずせない世の中では、人違いはよくおきているんだろうな、と苦笑いをしたが、相手が財布から五千円札を取り出して私に押し付けるに及んで、すっかり困り果ててしまった。
「いいんだ、いいんだよ。半分は長年の利息だよ。考えてみればだね、こんにちの俺様の存在はだね、クラスのみんなが僕を下げすんでいたことへの反発が大きく作用しとるんだな。いやすまんすまん。ちょっと失礼する、ションベンタイム、ランランタンタンランタン、ベーー」
フロントの若い女性に「ホエアイズトイレット、マダム」などと大きな声で聞くと、またランランタンタンと、なんだか卑猥な雰囲気が漂う歌をくちづさみながら手洗いに向かった。宴会の看板には何とか同窓会とあったから、学校の昔のだれかと勘違いしてることは間違いなさそうだが、どうするかなこの金を、と思案していると待ち人の京子がロビーへ入ってきて、私を手招きしている。歩いていって聞くと、タクシーを待たせてあるからすぐ行こう、という。何やら面倒な気持ちになったが、別に逃げる気もないが、京子に従ってタクシーへ乗り込んだ。
「どうだった、この間の集まりは?何人来たの」
定年まで勤めたあるホテルのOB会のことである。私は食堂宴会課が長かったが、京子は宴会に派遣されて来る配膳会の一人だった。初めの頃は私が指図して、婚礼でいえば、仲人の挨拶、乾杯、どこで料理が始まり、どこで招待客のスピーチが始まり、お色直しは何時で、ケーキ入刀、デザート、コーヒーのタイミングや、次の宴会を考慮したお開きの時間をその時々の状況に応じて彼女たちに合図を送っていた。しかしもともと彼女たちはプロなので、実際には、すべて分かっていて、むしろこちらの合図をうながす雰囲気があって、私が右手を挙げて合図を送るのは単に演出に過ぎないことが多かった。あちこちのホテルの流儀や宴会支配人のクセを飲み込んでうまく流れを作ってくれるのは、彼女たちなのである。やがて、彼女は「常備」と呼ばれる私の居るホテルの専属になった。朝から晩までこのホテルに勤務して、食堂の手が足りなければ「ヘルプ」に入ってもくれる、ありがたい存在である。
「今日は残念だは。一気にお金持ちになれたかもしれないのに」
京子とは、毎年暮れの最後に宝くじの抽選会に顔をだす。これには様々な理由があって、同様に夢がたくさんあるのだが、もちろん、当たらないから、それで十分面白いのだった。
しかし、今年は変なウィルスの大流行のおかげで中止になり、しかたがないので、劇を見に行くことなった。京子には黙っていたが、私は先ほど五千円を儲けたので、まあ、不労所得だから、宝くじに当たったような気分である。この程度の不労所得はいい。法的にはどうか知らないが、良心の呵責も少しばかり緩い。何しろ宝くじにどかーんと当たると、もしかしたらお互いの家庭を清算して、京子と所帯を持つことになるかもしれないのだ。それらしい曖昧な約束があって、しかし、幸いなことにというか、当たり前というべきか、まったく当選などにはかすりもしない。さて、来年はどうなるのか。来年はもしかしたらマスクではなく、頭からすっぽりずきんをかぶらないと、感染が防げないということになるかもしれない。そうなるとまた、いろいろと人違いが多くなって、結構実入りがあるかもしれない。来年は一、二万円くらいは稼ぎたいなと思った。
(了)