第72回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「専門店」本間文袴
いつもは行かない通りを歩いていると、一軒の店が目についた。
『真素処店』
錆びついた看板に書かれた店名の横にはルビが振られていて、『ますくてん』と読むらしい。ガラス張りのショーウィンドーにはいくつかマネキン人形が並んでいたが、どれもこれも顔に透明な何かをつけているだけで、服の類は身につけていなかった。
少しの間それらを眺めてから通り過ぎようとすると、不意に店の扉が開いた。くぐもったドアベルの音と共に一人の女性が出てくると、中に向かって声をかけた後、まるで踊るかのような足取りで通りを駆けていった。
ちらりとしか見えなかったが、その女性は顔に透明な何かをつけているように見えた。
店の扉に目をやると、扉は再びゆっくりと開き、今度は初老の男性が顔を出した。
「こんにちは」
穏やかな表情でこちらに声をかけてきたその男性は、シンプルな吊りズボンを着ている。黙っているのも悪いと思って挨拶を返すと、男性は扉をさらに開いてみせた。
「よろしければ、少し寄っていかれませんか。うちはマスクを取り扱っているのです」
「マスクというのは、あれですか。風邪の時なんかに顔につける、白いガーゼのあれですか」
そう尋ねると、男性はおかしそうに笑った。
「それもマスクですがね、うちのは少し違います。どうですか、少し見ていかれませんか。他ではあまりないマスクですから、面白いと思いますよ」
店の中からは、オレンジ色の光が洩れている。
一度時計を確認した後、少しだけのつもりで中に足を踏み入れた。
店の中は想像していたよりも明るく、そして広かった。
壁際には小抽斗が大量についた背の高い箪笥がずらりと並び、部屋の中央にはガラスのショーケースがいくつも置かれている。中には透明な板状のものが展示されていて、まるで昆虫の標本箱のように見えた。
「では、改めて、いらっしゃいませ」
後からついてきた男性は、そう言うと椅子をこちらに勧めた。礼を言って腰掛けると、足元にも小さな箱が積み上がっているのが見えた。
「マスクというのは、そこに飾られている透明の板のようなもののことですか」
何の気なしにそう言うと、男性は驚いたような顔をした。
「お客様、あれが見えるんですか」
カウンターの向こうから、身を乗り出すようにしてこちらを凝視してくるその視線に肩をすくめて見せると、男性は少し頭を振った。
「いや、失礼。うちのマスクを視認できる人は少ないですから」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味ですよ。うちのマスクは、いわゆる一般的なマスクとは違う。うちのマスクは、それをつけた人が劣等感を抱いている部分を隠すんです」
男性はショーケースから透明の板を一枚取り出すと、端の方を指でなぞった。指先で何かを摘んで引っ張ると、板は倍の大きさになった。どうやら、畳まれていたものを広げたようだった。
「先程の女性、どう見えましたか」
「どうって、美しい人に見えましたけれども」
「あの方は、自分の顔に劣等感を感じる部分がおありだった。マスクをつけた姿に、とても喜んでおられました」
「それで、本来ならマスクそのものも見えないから、その女性は美しい姿になって幸せになったと。そういうことですか」
「装着している感覚もありません」
男性は透明なマスクを手渡してきた。自分で触れてみると、それは見た目通りの硬い感触をしている。
「ただ、一つ気をつけなければいけないことがあります。このマスクは、一度つけると外せないのです」
「それが何か問題なのですか。見えなくて、感触もないなら、気にしなくてもいいのでは」
「稀に、いらっしゃるのです」
そう言って、男性は窓越しに通りを見た。つられてそちらを見ると、透明なマスクが空中に浮いてふらふらと移動している。
「あれは」
「昔、ここに来られたお客様です。あの方は、自分の存在そのものに劣等感をお持ちだった。そして、それに気づかずにマスクをつけてしまったのです」
「マスクを外せないのなら、その人は」
男性はゆっくりと目を伏せた。
「もう、誰の目にも映らないでしょう」
(了)