阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「待ちぼうけ」仲井令
気づけばもやもやとした煙に包まれた、ただっぴろい場所に一人立っていた。
自分の寝ていたベッドを取り囲むように居並んだ子供たちの顔が、目覚めた後の夢の影像のように、微かな断片となって浮かんでくるも、やがて薄れて消えていった。
何とはなしに、自分が死んだということが分かった。とするとここは病室でもなく、あの世ということになる。だが、それに対して恐怖や喜びといった反応はなく、感慨もなにもなかった。ただ、「ああそうか」という無関心じみた、諦めに近い心地だった。
何か行動しなければと、それも何となく思いついて、とりあえずここから歩いてみることにした。
死ぬと疲れもなくなるのだろうか。死ぬ前は禄に歩けもしない身体だったというのに、もう一時間近く歩いているのに息一つ乱れていない。
さらに一時間歩きつづけると、前方に大きく光るものが見えてきた。
近づいていくと、いつのまにか周りをただよう煙は薄れて、視界が開けたその目の前には巨大な建造物があった。
それは高い塀に造られた雄大な門だった。
まずその大きさに、次に造形の幽玄さに圧倒される。まさに神が細部まで宿っているかのようだった。自分が死んだ事を理解できたのと同じように、すぐさまそれが天国の門だということが見てとれた。
異様な感動に包まれながらさらに近づいていくと、門の前に小さな人らしき姿が見えた。
近づくにつれそれが女だとわかり、妙な懐かしさをふと覚えた。門の下まで近づいてきてようやくその懐かしさに思いあたった。女は亡くなった妻だった。
「お、おまえ、美代子か?」
「あら、嬉しい。死んでも妻の顔は覚えていたのね」
妻は陽気な顔をして近づいてきた。
「あなた、私が死んだ時の事覚えてる?」
「何だって?」
唐突な質問に私は思わず驚いたような声をだす。
「ほら、最後の時。私言ったでしょう。先に待ってるって。あの世でも、あっちでも一緒になりましょうって」
「ああ、あの時のことか。うん、確かにいってたなぁ」
「現世でした天国に関する約束事は、どんなに小さなことでもここできっちり履行させられるらしいのよ。だからまだ私も天国へは入れていないって訳」
「それはつまり……」
「そうよ、あなたと一緒じゃないと肝心の天国の門も開かないのよ。たくさんの人が後からやってきて入っていったけど、私はここで待ちぼうけ」
妻はそれでも恨むところなどない、呑気そうな調子でいう。
「私も結構待ったのよ。まさか貴方がこんなに長生きするとは思わなかったもの」
妻が亡くなったのは二十年も前のことだ。その時すでに私は七〇歳を超えていた。たしかに待たせすぎたようだ。
しかし私が妻の説明を受けて仰天したのはそういったことではなかった。
「じゃあ、そろそろ行きましょうよ」
妻は私の手を引いていこうとした。しかし私は動けなかった。
「すまん」
私は誤るしかなかった。妻はそれを聞いてポカンとしている。
「どうしたの? 急に誤ったりして。あっ、もしかして待たせたことを申しわけないとか思ってるの。嫌ねぇ、こうして再び会えたんじゃないの」
妻は門に近づいて巨大な扉に手をかけた。しかし扉が開くことはなかった。
妻がようやく不審気な顔をしてこちらを振りむく。
「私も亡くなる時に約束してきてしまったんだ。子どもたちと」
妻と合せる顔もなく、うつむいたまま、消え入るような小さな声でつぶやいた。
そのときふたたび、死ぬ間際に見た、自分を取り囲でいるまだまだ若く健康的な五人の子どもたちの姿が脳裡に浮かんできた。
(了)