阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作 「白鷺」赤沼夕時
だいぶ寒くなってきた。この川の水もだいぶ冷たくなった。鴨たちも朝の食事を終えて、水から上がるのがずいぶんと早くなった。コンクリートの護岸の上で、丸くなって陽に当たっている。
足をずっと水につけて食事をするのは、俺にもつらい時期になって来た。水温が下がって魚の動きも鈍くなっているからまだ助かる。朝、寝床からこの川に飛んできて、寝ぼけている魚を二、三匹サッと頂戴して、あとは俺も鴨たちに並んで、しばらく丸くなって陽に当たっている。
冬が近づくにつれて、この川に集うメンツも増え始めている。北の方から渡ってくるやつらがいるからだ。
俺は一年中この土地にいる。この川はまだ、他の鷺に見つかっていない。鴨は魚を食べないから俺が独り占めできるし、この真っ白い羽を広げて威嚇しながら歩けば、鴨たちはすごすごと道を開ける。都会の汚い川だが、ここでは俺が一番上で、気持ちよく羽を伸ばしていられる。
そろそろあいつが来るはずなんだが。北から渡ってくるはずなんだが。
あいつはこの川で唯一、俺に楯突いた。
去年あいつが初めてここに来た時、俺はいつものように鴨の群れの中に踏み込んでいった。のそのそと散っていく鴨たちの中で一羽だけ、でんと座ったまま動かないやつがいた。それがあいつだ。
鴨っていうのは黄色とか緑とか、なんとなく間抜けな色をしているもんだが、あいつは違った。黒い体に、白いクチバシ。そのクチバシに大きな傷があった。
俺はムッとしたが、歩みを止めなかった。あいつは逃げなかった。俺はさらに近づいた。それでもあいつは逃げない。
「おい」俺の声にもあいつは応えなかった。俺は続けた。「お前、なんでどかないんだ」
あいつは俺の方を見ないまま言った。「なんでどく必要がある」
「なんでって、お前、鴨だろう」
「鴨ならなんでどく必要がある」
「ここは俺の川だ」
俺は白い羽を大きく広げて威嚇して見せた。だがあいつはずっと川を見ている。
「そこで俺の息子がメシを食ってる。俺はここに座ってそれを見ていたいんだ」
見ると確かに若い鴨が一羽、一心に水中に頭を突っ込んでいた。
あとで他の鴨から聞いた話では、あいつは大きな鷹に奥さんを殺されたらしい。こっちに渡ってくる直前に。そして命からがら、息子を連れてここに辿り着いたそうだ。どうりで、クチバシにあの傷。
次の日も、あいつはどかなかった。その次の日も。とうとう冬の間中、俺はあいつをどかすことができなかった。
そして春が来て、あいつらが北へ帰る日がやってきた。俺はあいつに言った。
「来年も来るのか」
あいつは俺の方を見ずに言った。
「わからない」
遠い目をしていた。鷹の姿が浮かんでいるのだろうか。それとも奥さんの姿か。クチバシの傷が妙に痛々しく見えた。
「俺はまだ負けてないからな」
息子が川から上がってきて、ブルっと体の水を払った。俺とあいつを見て「またやってる」と言いながら笑った。
「勝負は来年に持ち越しだ。いいな?」
俺がそういうと、あいつは初めて、俺を正面から見た。そして少し笑って、大きくグワッと鳴いた。他の鴨より立派な、太い声だった。
俺はこの川で威張っているのが心地いいのだと思っていた。しかしあいつらがいなくなってからというもの、まるで張り合いがない。なんでだ? 俺は……あいつに憧れ始めていたんだろうか。あいつの毅然とした姿に。
北には何があるんだろう。あいつの生きてきた北には。北に行けば、俺も、何かが変わるだろうか。
その時、遠くから大きな声がした。グワッ。あいつだ、あいつの鳴き声だ。
俺は声がする方に振り向いた。太陽を背に鴨が飛んでくる。一羽。息子はどうしたんだ? ……いや違う。クチバシに傷がない。
あれは息子の方だ。父親そっくりに成長した。だが父親のあいつは? もしかすると……。
息子は空中で少しバランスを崩した。羽に大きな傷ができている。何があったのか……。
北はきっと恐ろしいところだ。だが……きっと何かがある。俺が自分でも気づかぬうちに求めていた、何かが。
今度ははっきりと俺に向かって、息子がグワッと鳴いた。父親そっくりの声だった。
息子と話をしてみよう。旅のこと、あいつのこと、北のこと——。
俺は空に向かって、大きく羽を広げた。
(了)