阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「私が愛した女」吉田猫
週末の夕暮れ、駅前の一画は待ち合わせの人々で溢れていた。人込みを避け少し離れた場所で私も妻を待っていた。
結婚三十周年を祝ってたまには外で食事をしようと妻を誘い、この駅前で私たちも待ち合わせることにしたのだ。仕事を早めに切り上げ会社を定時に出たので、ここに着いたのは約束の時間より十五分も前だった。
壁を背に駅前を通り過ぎる人々をぼんやりと見ていた。そのとき雑踏の中を颯爽と歩くベージュのコートを着た一人の若い女性の姿に私は目を奪われた。えっ、と驚きだんだんと近づいてくる女性に思わず目を合わさないように顔を伏せてしまった。由起子? その女性は私の前を通り過ぎ駅の構内に入っていくのがわかった。私は顔を上げ苦笑した。自分を何歳だと思っているのだ。私が佐田由起子と最後に会ったのはもう三十年以上前のこと。私とほぼ同年の由起子があんな若い娘のはずがない、馬鹿なことを。他人の空似ってやつだ。しかしあの長い髪や気の強そうな鼻筋があまりに当時の由起子に似ていて心臓の鼓動が早くなるのを感じたほどだった。そういえば由起子と最後に待ち合わせをしようとしたのもこの駅だ。それを思い出すと体が熱くなる。駅前の喧騒の中で当時の記憶が湧き出すように込み上げてきて私を包み込んだ。
佐田由起子は情熱的な女だった。激しい生き方をしていた。学生時代の終わりにアルバイト先で知り合った由起子とは、私が就職してからもあやふやな関係が続いた。由起子は劇団の活動にのめり込み、アルバイトを掛け持ちし、仲間たちと飲み歩き、演劇を論争していた。劇団の男と関係があるのではないかと疑い苛立ちが募った。私と会うときには最後はいつも喧嘩になった。ついていけない、毎回そう思いながら、それでも由起子のことを忘れることができなかった。
ある週末の夜遅く、電話をかけてきた由起子は突然別れを切り出した。あなたのことが嫌いな訳じゃない。一旦あたしは撤退するの、と一方的に喋った。
「撤退? 一体何から撤退するんだ?」
「すべて。一度撤退して、また進撃するの」
「言ってる意味が分からない」
結局は故郷の帯広に帰ることを由起子は撤退と表現し、また出直すのだと言った。信じられなかった。由起子がこの都会から離れて暮らせるはずがない。休日の明日、駅前で会おう、と約束して電話を切った。一緒に暮らそう、結婚してもいい、と言うつもりだった。
ところが私は大きなヘマをしでかした。寝過ごしてしまったのだ。目が覚めたときは約束の十分前だった。おまけに慌てて乗った電車が事故で止まってしまった。携帯電話の無い時代、我々はどうやって待ち合わせの意思疎通をしていたのだろう。既に思い出せない。どちらにしても私は由起子との約束をすっぽかしてしまったことに違いはない。二時間遅れて駅に着いたが由起子がいるはずもなかった。彼女の部屋を訪ねても留守だった。電話を掛けても出ない。数日後、再度行ってみたがポストの表札も消えていた。由起子はひっそりと一人で撤退してしまったのだ。若かった私には為す術もなかった。本当に帯広に帰ってしまったのかどうかもわからないまま彼女は私の前から完全に姿を消してしまった。
その後、友人の紹介で知り合った妻と私は結婚した。妻は激しい由起子とは正反対の優しい穏やかな女だ。いつも微笑み、怒ったことなどほとんどない。子供も生まれ家も買った。我ながら幸せな家庭を築けたと思う。
もしあのとき由起子と一緒になっていたとしても二人の生活は長くは続かなかっただろう。由起子は私なんかで我慢できる女ではないのだ。それでも考えてしまう。あのとき、しっかり目が覚めて、電車が遅れなければ私たちはどうなっていただろうと。彼女とは幸せな家庭なんか築けるはずがないのはわかっていた。それでも由起子のことを私は……。
「あなた」
声を掛けられ我に帰ると目の前に微笑む妻が立っていた。
「空を見上げてどうしたの? 何かいるの?」
「いや、何も」気が付かないうちに私は上を向いて思いに耽っていたようだ。妻に考えを見透かされたようでどぎまぎとしてしまう。私は話をごまかすように急いで言う。
「イタリア料理の店を予約したよ。行こうか」
「ええ、楽しみだわ」
歩きながら妻の横顔を少しだけ見た。感謝の気持を覚える。俺は幸せ者だ、と。しかし由起子のことがここ数日間はきっと頭から離れないだろう。込み上げてくる苦々しくも甘酸っぱい気持ちを抑えきれなくなりそうだ。しかし今日一日の残る時間だけは、由起子のことを考えるな、と自分に言い聞かせた。
それから、もう一度妻の横顔をそっと見た。
(了)