阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ラベリング」石黒みなみ
教授は助手が持ってきた報告書に目を落とした。研究対象である生物のサンプルはすべて、すぐそばの棚に並んでいる。ガラスの容器のひとつひとつにラベルが貼られていた。膨大な数だ。
「ずいぶん時間がかかったじゃないか」
緊張した様子でさっきからそばで黙っている若い助手に、教授は声をかけた。
「すみません、でも正確を期するために、できるだけたくさんサンプリングしたのです。分析も丁寧に行いました」
「ちと多すぎる。それで結果は」
「正直申し上げて、思ったほど個体差はありません。確かに同じ種の中で、微細な差異が認められはします。しかし、結局、体色、体長、体重なども成体になればほとんど変わりません。先天的に視覚や聴覚を欠いたり、あるいは後天的に一部の感覚や身体機能を失うものもありますが、そう大きな差ではありません」
「わかりきったようなことだな。知的な面はどうだ。一般的には、比較的高度な文明を擁しているように論じられてきたが」
「大したことはありません。我々から見ると微細な個体差を、お互いは大きな差があると認識している様子です」
助手はため息をついた。
「まるで互いに見えないラベルを貼り合っているようです。差があると思う者同士で無駄な争いを繰り返し、種全体として有形、無形の資産を共有することができません。しかも、このレベルの知力なら、身体機能や感覚が一部失われた個体が、もっと活動できるように環境を整備したり、なんらかの補助器具を作り出したりすることができるはずなのに、全くそういう動きがないことは大変奇妙なことです」
「やはり愚かな生物だ」
「彼らがもう少し視野を広げれば、個体間の関係も、また個体群同士の関係も改善されるのにと残念です」
「そんなことを考える必要はない」
助手は黙ってラベルを眺めた。
「個体数の変動はどうかね」
「はい、年々、繁殖力が衰えて、数は減っていますが、まだ自滅はしそうにありません。それより、この生物が環境に与える悪影響のほうが懸念されます。中途半端な知力で自分では制御できないような物質を作り、自らの環境を破壊し、生態系全体をおびやかしています。悪影響がこの惑星だけにとどまればいいのですが、このごろでは別の惑星に進出しようとしています」
「ふむ。で、例のウイルスの様子はどうだ」
「この実験は予想以上に、集団全体にダメージを与えています。最初は思いあがったことに、彼らはウイルスに打ち勝つことができると思ったようです」
教授は大声で笑った。
「学ばない生物だ。過去に様々な感染症を経験しているはずではないか」
「ええ、まるで集団的健忘症のように、今だかつてない危機だと騒いでいます。やっとウイルスとの共存が必要だとわかってはきたようです。しかし、どういうわけか個体同士が適切な距離をとるということができず、不要な集合や接触を繰り返し、感染を抑えることができません。一部の集団は、密接に接触しながら生活することこそ、意義のあることだという考えに固執しています。また、感染したものへの理不尽な攻撃も収まらず、正しい科学的な認識も含めて、知性の欠如を改めて感じます」
「では、もう決まりだな」
窓の外に青い惑星が見えている。
「いや、もう少しお待ち願えませんか。この妙に集まりたがり、同一化を好む一方、微細な差異にも執着するこの不思議な生態は案外面白く、この先どう進化するか…」
「いい加減にしろ」
教授は冷たく言った。
「だから君は万年助手なんだ。下等生物の分類ごときにどれだけ時間をかけているんだ」
何か言おうとした助手に教授は背を向け、窓の外を見ながら手元のボタンを押した。青い惑星は爆発し、一瞬で宇宙の塵となった。
「結局君はこの愚かな生物と同じレベルだ。些細なことにこだわり……」
背を向けたままの教授は最後まで言い終えることができなかった。助手の数多あるしなやかな触手の数本が、教授の体全体を締めつけたからだ。教授は二本しかないか細い触手をしばらく振り回したが、すぐに息絶えた。
助手は床にだらしなく伸びた教授の体を余っていたガラスケースに入れた。次に新しいラベルを取り出してケースに貼りつけ、消えた惑星の生物たちの横に並べた。白紙のままのラベルと、さっきまで青い惑星のあった窓の外の闇を、助手は五つの目で静かに眺め続けるのだった。
(了)