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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作 「ミッション・インポッシブル」岡本香月

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第70回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作 「ミッション・インポッシブル」岡本香月

 仕事の帰りにスーパーの総菜コーナーに立ち寄る。揚げ物の好きな彼は目についた天丼弁当に気を惹かれる。これもいいが、と彼は思う。このところ脂っこいものばかりだった。今日は寿司が食べたい。そんな日があるものだ。

 夕方のピークを過ぎ、寿司のワゴンにはマグロの握りのパックが二点と盛り合わせの握りのパックが数点残っているだけだ。

 よし、マグロの握りだ。彼は今日のターゲットを定める。しかしすぐには手を出さない。時刻は間もなく午後七時になる。そろそろバックヤードから白衣の、彼にとっては天使のような女性が出てきて三割引きのラベルを貼る頃だ。

 彼は単身赴任で、地元には妻と小学生の娘と息子を残してきている。いろいろとお金のかかる時期だが家族にはなるべく不自由をさせたくない。そのため自分の生活費は可能な限り切り詰めている。しかし家賃等の固定費を除くと節約できるのは食費くらいだ。仕事の帰りにここに立ち寄り、見切り品の弁当や総菜を手に入れるのは日課になっている。

 突っ立っている訳にもいかずフロアを巡回する。彼同様、背広姿で空のカゴを手にした単身赴任族つまり敵も多数いる。マグロの握りは二パックしかない。こんな時には椅子取りゲームの様相を呈することもある。

 七時を過ぎても白衣の天使、いや女性は現れない。仕方なくもう一回りしてから総菜コーナーに戻る。するとそこは静かに活気づいていて敵たちと数名の主婦が思い思いのものを手に取りカゴに入れている。白衣の女性はもう他のコーナーへ移動している。

 彼はあわてて寿司のワゴンに走り寄る。すでに人は散っている。しかし盛り合わせの握りはすべてなくなっているのに、マグロの握りは二点とも手つかずのまま残っている。

 ターゲットの競合はなかったらしい。彼は一瞬緊張を解くが、すぐにワンランク上のミッションを自らに課し身を引き締める。生ものに限ってはもう一度チャンスがある。七時半に五割引きになるのだ。なお、それ以上の値引きはない。

 時計を見ると七時五分を過ぎ十分も近い。彼はそれまで待つことにし、二階の衣料品売り場で値下げ品を見て時間を潰す。下着が四割引きだ。セール期間は今度の日曜日までなので、週末に買うかどうか考えよう。

 七時半少し前に寿司のワゴンに戻り、マグロの握りがまだ二点残っているのを確認する。今度はタイミングよく白衣の女性が現れる。彼は五割引きのラベルが貼られるのと同時に手を伸ばす。すると、まるでステルスのように予期せず現れた敵とニアミスを起こす。

 彼は接触を回避するために反射的に手の軌道を外すが、敵は微塵の迷いもなくまっすぐに手を伸ばしマグロの握りをつかむとカゴに入れ、悠々とその場を立ち去る。これまでにもその敵には何度か遭遇したことはあるが競り勝ったことはない。強固な意志の裏づけを感じさせる圧の強さや無駄のない動きなどただ者ではない。脇目も振らずターゲットに向かって突き進むその姿勢には学ぶべきものがある。おそらくそれなりの会社の優秀な管理職に違いない(彼は名もない会社の課長補佐だ)。家族関係についても受験生や大学生の子供が複数いるなど彼よりもずっと負担の大きい状況にあるのだろう。

 しかし今日はもう一パックある。気を取り直してそちらに手を伸ばすと、今度は皺だらけの手が接近してくる。いつもの敵ではなく、ジャージ姿の痩せた髪の薄い老人だ。その老人の風体からはネガティブなオーラが滲み出ており、例えば奥さんに先立たれ一人わずかな年金でやっと暮らしている、そんな状況を想起させる。

 彼はさすがに戦意を喪失する。この老人と争う訳にはいかない。天丼弁当はまだ残っているだろうか。いや、しかし、と彼は思い直す。一度ターゲットを定めたら他人のことなど気にせずミッションを完遂すべきなのではないか。それが自分のためであり、家族のためでもある。さっきの敵なら迷うことなどないに違いない。

 一瞬止まり後れを取った彼の手が再び動き出すのを見て取った老人は、人懐っこい笑みを浮かべ手を引っ込める。

 あんた、これ、持って行きなよ。背広着て、ネクタイ締めて、こんな時間に、こんな所に来るなんて、単身赴任かい? 大変だね、奥さんやお子さんたちのことも心配しながら、仕事の帰りにスーパーで買った値下げ品を一人で食うなんてさ。同じ一人でもおれみたいにもう仕事をやめてのんびり暮らしている爺さんが、あんたの食いたいものを横取りしたらばちが当たるよ。

 彼はつい赤面して俯くが、同時に、目尻にほんのわずかに汗のようなものが滲むのを感じる。

(了)