落選する2つの作品タイプ


神様視点
私が「公募スクール」で担当している中に「落選理由を探る」という講座があって、それは前回も触れたのだが、ここに送られて来る作品には2つのタイプがある。
1つは、文字通り「**賞に応募したのだが、一次選考も突破できず、講評もしてもらえなかった。なので、一次選考落ちの理由を教えて欲しい」というもの。
もう1つは「長編を書き上げて**賞に応募したいのだが、もっと向いている新人賞があれば教えて欲しい」というもの。
前回は「基本的に時事ネタで挑戦すると、他の応募作とバッティングが起きるので、束にして落とされる」というキーポイントを書いた。
時事ネタと同じくらい一次選考で撥ねられる作品に「神様視点でスタートする物語」がある。
統計を取っているわけではないので、どっちが多いのかは分からないが、どっちも同じぐらいの多さだろう、という心証がある。
「神様視点でスタートする物語」とは、「冒頭に主人公が登場しない物語」である。
時代劇の合戦場面、ある事件なり事故なりを冒頭で扱っているのだが、そこに主人公が介在していないのが、「神様視点でスタートする物語」である。
これは、読んでいて読者(選考委員)が感情移入することができない。
「神様視点でスタートする物語は基本的に一次選考で落とす」が一次選考担当の下読み選者の共通認識となっている。
ただ、これは下読み選者の共通認識ではない。とはいえ、圧倒的に多数派を占めるので、新人賞のグランプリを狙うアマチュアは、多数派の方針に従うのが賢明と言える。
私は、自分の小説教室の生徒には、「主人公は1行目に、それが無理なら5行以内に登場」させるように、と指導している。
冒頭シーンに「前例のないほど強烈なインパクトのある場面」があって、そこに惹き付けられるのであれば、もう少し主人公の登場が遅れても構わないのだが、まず、それは至難の業。
例えばテレビのミステリー・ドラマの冒頭のように、「友人宅を訪ねてみたら、そこに死体が転がっていた」などは駄目である。
一発で、予選落ちすると思っていたほうが良い(しかし、そこが理解できていないアマチュアは、想像以上に多い。
まさか「自分だけは別だ」などと我田引水のことを思っているわけでもないだろうが。
出し惜しみ
「神様視点でスタートする物語」を書く人には、ある程度まで共通した特徴がある。それは「出し惜しみ性向」である。
物語のキーポイントになることは、あとのほうに出すように構成したほうが選考委員の気を惹くことができると勘違いしているとしか思えない。
そういう気持ちで読んでもらえるのは、人気プロ作家になってからである。
例えばアガサ・クリスティーは新人時代、さっさと事件を起こしていたが、人気が上昇するに従って、殺人事件の発生が遅くなった。
全体の60%を過ぎるまで事件が起きない構成になっている物語も珍しくない。
新人賞を狙うアマチュアは、晩年のアガサ・クリスティーのような「踏ん反り返った態度」で新人賞応募作を書いたら駄目である。
それでは永久に一次選考の壁を突破できずに終わる。
また、「神様視点でスタートする物語」を書く人の中には、主人公(視点人物)がコロコロ次から次へと変遷していく物語にしてしまう人も相当数、存在する。
これなど「神様視点でスタートする物語」どころか「視点」の意味すら理解できていないとしか思えない。
こういう人は、まず「主人公の単独視点の物語」を書くことである。
「この人物を描きたい!」と考えている人物を決め、物語の冒頭5枚以内に出し「主人公の目に映らない・耳に聞こえない・気づかない・忘れている・認識できないことは絶対に書かない」を肝に銘じて書くことである。
しかし、「**は振り返らなかった。だが、別れたばかりの**が自分の背中を凝視していることには、全く気づかなかった」などといった類の文章を書く人は意外に多いのである。
①主人公は、できるだけ早く出す。
②主人公の五感に触れないことは絶対に書かない。
この2項目に加えて「主人公のキャラが立っている」ことは必須である。
「キャラが立つ=選者(作家・評論家・幹部編集者)が、その人物を魅力的と判断する」である。
「平凡な主婦」「ごく普通のサラリーマン」「ごく普通の学生」などを主人公に設定したら、予選落ちは確実だと心得ていたほうが良い。
プロフィール
若桜木虔(わかさき・けん) 昭和22年静岡県生まれ。NHK文化センターで小説講座の講師を務める。若桜木虔名義で約300冊、霧島那智名義で約200冊の著書がある。『修善寺・紅葉の誘拐ライン』が文藝春秋2004年傑作ミステリー第9位にランクイン。