阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「同窓会」葉月
(やっぱり来るんじゃなかったな)
受付で怪訝な顔をされたとき、大樹は悩んで悩んで決意した十年ぶりの同窓会参加を後悔し始めていた。長い間会わなかったのだ。
「え……と、ごめん、誰だっけ?」
これはわかる。問題はそのあとだ。
「……杉崎です」
ふつう名乗ればすぐに「あーっ、久しぶり。元気だった?」と笑顔が返ってくるはずだ。でも受付の斉藤さんは微妙な表情をして、
「あ、ああ、……杉崎くんね」
と、名簿を一生懸命探し始めた。覚えていないんだ、俺のこと。大樹は口元を歪め、
「ああ、杉崎だいき君。久しぶり」
ようやくホッとしたように微笑んでくれた斉藤さんに、無言で会費を渡し会場に入った。
何クラスもあった中学校なら覚えていない奴もいるだろう。でも桜中はたった二クラスしかなかった。俺は透明人間だ。あの頃から。
いや、何を言っているんだ。そもそも、今もそうだと思い知らされ、そのことが俺を後押ししてくれるだろうと思ってここに来たんだ。何をがっかりすることがある。
自由席だというので、隅の方に座り、しおりを見るふりをして、大樹は俯いた。そばには誰も座らない。ほら、やっぱりな。
司会の開会の合図で、隣の席が埋まった。
「えっと、ごめん、誰だっけ? 俺、田村」
「杉崎」
「あ、……久しぶりだな。今何やってんの」
「ふつうのサラリーマン」
それきり会話は続かない。田村は向こう隣の奴と話し始めた。ほら、やっぱりな。
たくさんの会話が、俺の身体をすり抜けていく。意味のわからない外国語の渦の中……。ほら、やっぱりな。俺はいつも一人だ。
大樹は手酌でビールを飲み、味のない料理を口に運んだ。
予想通りだ。この空気が俺の背中を押してくれる。ここを出たら、一歩踏み出せるさ。
母ちゃんが死んだ。
仕事もなくした。
もうじき失業手当も切れる。
なにもない。思い残すことすらない。
もういい、充分だ。出よう。そして……。
大樹はコップに残っていた、苦みの増したビールを一気に飲み干した。その時だ。
「おい、ひろき。手酌とは寂しいな」
跳び上がるほど驚いて振り向くと、相変わらず無精髭を生やした、中三の時の担任の小熊先生が、笑顔で隣の席に座ってきた。知らないうちに田村は席を離れていたらしい。
「クマさん……」
現実に引き戻され、思わず当時のニックネームで小熊先生のことを呼んでいた。
「どうした、お前。めちゃくちゃ暗い顔していたぞ。
そういえばお母ちゃん、元気か? お前、修学旅行の時、お母ちゃんに清水焼の湯飲み茶碗、買ってただろう。あれ、母ちゃん、まだ使ってんのか?」
「……先生、そんなこと、覚えてんの?」
「覚えてるさ。でも、あれだな。一番お前に感謝しているのは、放課後、毎日黒板をキレイにしてくれてたことだな。
俺が、皆が帰ったあと黒板掃除していたことを、お前知ってたよな。で、部活を引退したあたりからかな。代わりにやってくれてたの、お前だろ? ホント優しい奴だよ、大樹は。
成人式の時の同窓会で、感動の秘話を皆に紹介しようと思ったのに、お前、来なかったんだよな。でも、今日は来てくれてよかった。
あらためて、本当にあの時はありがとな」
それから、クマさんは、大樹でさえ覚えていない中学校時代のエピソードを、次から次へと楽しそうに語ってくれた。
先生の一言一言が、大樹の空っぽの心に降り積もっていく。そして、知らず知らずのうちに、涙があとからあとから流れてきて、いつしか子どもみたいに泣きじゃくっていた。
クマさん、びっくりしていた。
「ごめん、先生。母ちゃん死んだんだ。俺が二十歳の時。だから成人式、行けなかった」
「そうか」クマさんの手が肩をつかむ。
「俺、失業した。会社、つぶれちゃって」
「そうか」クマさんの手に力がこもる。
「俺、何もないんだ。空っぽだ」
「そんなことないぞ。見てみろ」
顔を上げると、大樹とクマさんの周りには、同級生全員が集まっていた。先生は言った。
「な、そうだろ? みんな」
たくさんの笑顔が降ってきて、大樹の心は溢れそうだった。
「おい、杉崎。お前、施盤工やってたんだって? ウチの工場、手が足りないんだ。よかったら今度、見に来ないか?」
声をかけてくれたのは、剣道部仲間の沢だ。
帰り道の踏切で、誰も大樹の背を押す者はいなかった。
(了)