阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「初恋の行方」風谷凜里
「先生……」
妻の絞り出すような声が、何もない部屋に響いた。その声があんまり寂しそうで、無駄だと分かっているのに、つい、呼んでいた。
「おい、おまえ」
返事があるはずもなく、その声も空しく宙に消えていった。私と妻との間には、もう永久に会話なんて、交わされることはないかも知れない。
妻の様子が変だと気が付いたのは、一人息子の亘が、就職を期に家を出て間もなくのことだった。
「おい」とか「おまえ」とか、いつものように呼んだが、まるで返事をしない妻に苛立ち側に寄って軽く肩を掴んだら、いきなり「ひゃっ」と悲鳴を上げ、脅えたように私を見る妻の顔は明らかに私を、夫としてではなく、変質者か何かと思っているようだった。慌てて連れて行った病院での診断は、アルツハイマー型認知症。厄介なこの病気は、あっという間に進行し、妻は自分が結婚したことも、私が夫だということさえ、最近では忘れてしまったそんな妻の様子に、私は始め戸惑い、次に苛立った。そして、私が苛立つほど妻は、どんどん委縮していった。
「そんなの、当たり前じゃないか!」
すっかり困り果てた私は、息子の亘に電話した。すぐにやって来た亘は、怒ってそう言った。責められた気がした私は「見ろ」というように、荒れている家の中を見回した。掃除は勿論、食事の支度さえしなくなった妻のせいで、弁当やカップ麺の容器が、あちこちに散らかっている。どう見ても、被害者は私の方じゃないか。なのに亘は、散らかった部屋を片付けながら、独り言のように、ぽつぽつと話し始めた。
「父さん、家の中は、いつも勝手に綺麗になったり、ご飯が自動的に出来上がったりしている訳じゃないんだよ」
「何を当たり前のことを言っているんだ。おまえは」
「そうだよね。そんな当たり前のことさえ、俺は家を出て一人で暮らすようになるまで気が付かなかった」
散らかったゴミを袋に入れ終わった亘は、台所で汚れた食器を洗い始めた。
「やってくれる人がいないなら、自分でやるしかないんだよ」
そんな亘の言葉が、水音と混ざって、くぐもって聞こえてきた。
それから時々、亘が家に寄るようになった。私も徐々に、自分で掃除や、食事の支度をするようになった。その頃から、妻が頻繁に「先生」と口にするようになった。
「母さんが、会いたい人なんじゃない? 父さん、誰のことなのか分からないの?」
私と妻は見合い結婚だし、妻の学生時代の話なんて聞いたこともなかった。妻を、その「先生」に会わせてやりたいと考えた私達は、年賀状のやりとりをしている学生時代からの妻の友人に連絡をとった。すぐにやって来た友人は、妻の顔を見るなり、
「静ちゃん!」
と、叫んだ。妻も、すぐに嬉しそうに友人の名を呼び返した。
「由美ちゃん!」
妻は、妻であることを忘れてしまっても自分の名前は覚えていたらしい。
「名前なんて、呼んでもらうこともない」
いつも、友人にそう洩らしていたらしい。
「で、妻の言う『先生』に覚えはありますか」
私がそう尋ねたとき、由美と呼ばれた妻の友人は「静ちゃんの初恋の人ですよ」とだけ答えて帰って行った。
初恋の人……。
「近所の小さい子達の勉強を見てあげていてね、先生と呼ばれているの」
「そう、で、その先生が静ちゃんのお見合い相手なのね!」
嬉しそうに話してくれた、静ちゃんとの遠い懐かしい思い出は、もう少し黙っていようと由美は思った。あの時の幸せそうな静ちゃんの顔を、思い出しながら。
結局、「先生」という、その初恋の人に妻を会わせてやるのは難しいかも知れないが、これから私が、まさしく『先生』のように、少しずつ妻に色々教えていけばいいのかも知れないと私は、思った。
「静」と、久しぶりに名前で呼びかけてみた。
「はい」
少女のようにはにかみながら返事をする妻に、私は遠い昔、確かにどこかで会ったことがある気がした。
(了)