阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「小さな先生」土屋太希
「じいちゃーん! 来たぞー」
玄関口から響き渡るその甲高い声を聴いて、金三の心は弾んだ。年甲斐もなく廊下をバタバタと駆けていくと、孫の康介が上がり框に腰を下ろして靴を脱いでいるところだった。小さな背中の向こうでは娘夫婦が大きなビニール袋を抱えている。娘婿がペコリと頭を下げた。
「今年もお世話になります」
「いやいや、よく来たよく来た」
佳苗がビニールをずらすと、どっしりと実った立派なスイカが顔を覗かせる。
「これ、今年の献上品のスイカね」
「すまんな」
「じいちゃん。遊ぼう」
康介が足にしがみつく。自分の両頬はチーズのようにとろけてしまっていることだろう。しかし、金三は優しい祖父である前に、威厳のある、カッコいい爺ちゃんでありたかった。緩みかける気持ちを奮い立たせるため、わざとらしく咳払いをすると
「康介。遊ぶのは宿題をやってからじゃないか?」
などとそれっぽいことを言ってみる。
「えー」
非難の声を上げつつも康介は満更でもないように口の端をにんまりと上げて見せた。
「おじいちゃんの言う通りよ。遊ぶのは宿題やってからね」
佳苗の一言が決め手となり、康介はさして嫌そうでもなく「はーい」と声を上げると背中に背負ったキャラクターリュックを揺らしながらバタバタと居間へ向けて走っていった。
小さな背中を追って行くと、愛孫はちゃぶ台の前に座ってリュックから何冊かの冊子を取り出しているところだった。
「じゃあ算数ね」
「算数は苦手じゃなかったか。去年は国語からやったじゃないか」
康介は驚いたような顔をした。
「じいちゃんよく覚えてるね」
忘れるわけがない。金三は孫を独占できるこの時間が一年の中で何よりの楽しみなのだ。
とはいえ、そんなことを億面もなく発せられるほど金三は耄碌していない。照れ笑いをしながら頭をがりがりと掻いた。
「じいちゃんも、算数苦手だからな」
二人で身を寄せ合うようにテキストを覗き込む。体積の問題だった。康介は今年で五年生になる。夏休みの宿題は当たり前だが年々難しくなっていて、元々数学嫌いだった金三はついに去年教える立場から、一緒に考える立場へと降格した。孫と共に頭を抱えながら宿題に取り組むというのも悪くはないが、やはりカッコいいところを見せたいという欲がある。金三は張り切って体積の問題文を睨んだ。
「分かる?」
窺うように康介がこちらを見上げる。
「うーん。さっぱりわからん」
金三の威厳は霧散した。
「しょうがねぇなぁ。爺ちゃん。ここはね」
康介は嬉しそうに破顔すると次々と解答を埋めていった。おやおや? 去年はあんなに苦戦していた算数の問題を、今年は難なく解いていく。金三は呆気にとられつつ、うんうん、と首肯しながら孫の解説に耳を傾けた。
「康介は説明が上手だなぁ。将来は数学の先生になれるかもしれんぞ」
解説を聞き終えた金三がそういうと、康介は顔いっぱいに嬉しさを爆発させた。
「そうかなぁ」
がしがしと頭の後ろ掻いている。
「スイカ切ったよー」
エプロン姿の佳苗がひょっこり顔を覗かせる。
「スイカ! 食べる!」
康介は弾かれるように立ち上がると、バタバタと台所へ駆けていった。佳苗が入れ違いでこちらへ来ると解きかけのテキストを覗き込んだ。
「あら、ちゃんとやってる」
「おぉ。康介は凄いぞ。どんどん問題を解いていく」
佳苗は嬉しそうに笑った。
「最近あの子、よく勉強するのよ。おじいちゃんに教えてあげるんだってさ。車の中でも予習してたのよ」
お腹にぐっと熱い物が溜まるようだった。康介もまた金三と過ごす時間を楽しみにしてくれているのだ。飛び上がりたくなる衝動を抑えて、佳苗に悟られないようそっぽを向いた。
「そうか。康介は偉いな」
「そうね。スイカ食べるでしょ?」
佳苗に促され腰を上げる。緩む頬を抑え込みながら台所へ向けてゆったりと歩き始めた。蝉の合唱が聞こえてくる。夏は、まだ始まったばかりだ。
(了)