阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「慎司と名乗った男」水野祐三子
トン、トン、トン。背後から肩を三度叩かれた。時間は深夜三時、場所は一人暮らしのアパートの部屋。「ヒッ」と声を上げて振り向いて、俺は腰を抜かした。
「お、おまえ……、だれだッ」
――慎司だ。
そう言うと男は、机に広げている原稿用紙を指差した。俺が今書いている小説『昇り龍の夢』。主人公は、桜井慎司三十二歳。短髪できりっとした塩顔、結ばれた唇。野心と才能でのし上がり社会の巨悪と戦う企業戦士。風貌は確かに、俺が描写した桜井慎司そのものだ。しかも慎司と名乗った男は、まだ誰にも読ませていないストーリーを知っていた。
真夜中に一人で小説を書く俺の前に現れたのなら、男は幽霊か、強盗か、もしくは桜井慎司だろう。俺は、慎司を受け入れた。
――今どき原稿用紙に手書きってのがいいな。
――展開がありきたりだ、作家先生。俺が逃げる、と見せかけたら? 敵も読者も騙そう。
慎司はまるで編集者だった。
――作家先生、作家先生。
誰にも注目されずに十年。『作家先生』などと呼ばれたことはなかった。
「先生、なんてほどのもんじゃないよ、俺は」
――照れるなって、作家先生!
慎司は夜ごと現れ、朝になるとふっと消えた。いつしか慎司は、俺にとって、なくてはならない人になっていた。
原稿用紙百五十枚ほど書いた時だ。展開に行き詰った。真っ白な原稿用紙を前に俺の手は動かない。絶望の時。肩を三度、叩かれた。
「慎司……」
――作家先生なら書けるさ。これまでだって頑張ってきたじゃないか。頼むよ。
「最初の設定から、間違っていたのかも」
――設定って、俺のキャラ設定のことか? それとも、俺の人生が間違いだったって言うのか? 捨てるのか、この話。俺の人生。
「何を大げさな。大体、慎司はただの」
――ただの……? ああ、登場人物だよ。だからって、好きにできる駒じゃない。後藤まり、覚えているか?
「……覚えている」
――作家先生が葬り去った女だ。先生が書いてた小説『波と女』の主人公。サークル仲間の館山に批判されて、原稿を握り潰したろ。手の中で、まりの叫びが聞えなかったか?
「彼女は主人公として機能しなかった。館山さんの言う通りだったんだ」
――誰のせいだよ? 後藤まりか? 彼女は必死に生きただけだ。俺たちは生きている。アンタが作った物語の中で、アンタが決めたセリフを喋っている。それなのに。
「慎司、作家先生って呼んでくれないのか?」
――いつも、一次審査すら通らないじゃないか。アンタの作品もアンタの名前も、どこにもなかったものになる。そうしたら俺たちだって、最初からいなかったも同然だ。
――光を浴びたい。物語の中を生きている俺たちを、たくさんの人に知ってもらいたい。アンタには、伝える義務がある。
「認められたいさ、俺だって。だけど」
――才能がないものな。
「才能……? 俺にないのは、運とコネだ」
――運もコネも、才能もないんだろう。そんなアンタに作り出された、俺こそ運がない。
「慎司。お前まで、俺にそんなこと言うのか。
才能、才能! ふざけるな! 俺がいなけりゃ存在すらできなかった癖に。消してやる」
――キー一つ叩いて消去ってわけにはいかないぞ。アンタは原稿用紙を丸めるか破くか、ペンで塗り潰さなけりゃならない。必ず痕跡は残る。痛いだろうな、アンタ。自分が書いたものを、自分で否定するんだ。
「お前を消す方法は、それだけじゃない」
俺は猛然と、原稿用紙に向った。『昇り龍の夢』。桜井慎司は、非業の死を遂げた。復讐のため立ち上がったのは脇役の成瀬亮。話の途中で主人公が死ぬ。いや、主人公は亮に変わった。陰のある亮は、熱血漢の慎司より魅力的だった。物語がぐんと立ち上がる。俺は寝食を忘れて書いた。三百九枚目に「了」と書き込んだ時、五日が経っていた。書き上がった原稿は輝いて見えた。今度こそいける。すべてはこの時のためだった。慎司が死んでくれたからだ。
俺はパソコンを買い、ワープロソフトに入力するようになった。もう、ゴミ箱に突っ込んだ原稿用紙を見なくていい。間違えたら消去するだけだ。キーボードを打つ深夜三時、一人暮らしのアパートの部屋。
トン、トン、トン。肩を三度叩かれた。
……誰だ? 慎司は俺が殺した。
慌てることはない、と思った。キーひとつ押して、消してしまえばいいんだ。
――作家先生……。
慎司の声が聞こえたと思ったが、振り向いて俺は悲鳴を上げた。
そこにいたのは、俺だった。
(了)