阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「イニシャル」阿部寿人
昨日会社の帰りに、私は電車に傘を忘れた。えんじ色のチェック柄に、持ち手に「M・A」とイニシャルまで入れたもの。今度こそ失くすまいと少し奮発して買った傘だ。
今日も駅で確認したがまだ届いていないという。私はすっかり意気消沈して改札を出た。
今日はやけに人が多い。人の間を縫う様にして出口まで来ると、往来の中で立ち往生している一人の老婦人の姿が目に入った。年の頃七十半ばくらいだろうか、リュック式の小さな鞄を背負い、色の濃い眼鏡をかけている。よく見るとその手には白杖が握られていた。
白髪で細身の立ち姿が母親によく似ている。気になった私は近づいていって声をかけた。
「どうしました?何かお困りですか?」
老婦人は驚いた様子で私のほうを向くと、「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」と申し訳なさそうに答えた。
私には思い当たることがあって続けた。
「もしかして人が多くて歩けないのではないですか?実は私の母も糖尿病で目が悪く、人混みが怖いとよく言っていたものですから」
それを聞いた老婦人は少し安心した様子で、「実は……困っていました」と白状した。
「よかったら私の肩に?まってください。お宅までご案内しますよ」
私は、目の悪い母親に肩を貸してよく一緒に外出していたので、何の抵抗もなく老婦人の左手を持って自分の右肩に乗せると、ゆっくりと歩きだした。右肩に乗った老婦人の小さな手の感触は母親のそれに似ていた。
「どうですか?大丈夫ですか?」
「すみません、助かります」そう言って道すがら老婦人は、今病院の帰り道であること、目は網膜の難病で五円玉の穴くらいの視野しかないこと、タクシーに乗ればいいのにもったいなくて電車を使っていること、夫に先立たれ一人息子も病気で失くし、今は一人暮らししていることなど、いろいろと話してくれた。控えめな口調ではあったが、少しでも私に心を許してくれたのかと思いうれしかった。
人混みを抜けて少し静かな道に入ると、急に辺りが暗くなってきた。さっきまでよく晴れていた空がいつの間にか怪しい雲行きになっている。やがて小さな公園にさしかかったところで急に大粒の雨が降り出した。あわてて公園の中の屋根のあるベンチに避難する。
「降ってきましたね。困ったな」
屋根に当たる雨の音はどんどん激しくなる。すぐには雨が止みそうにない気配だ。
すると老婦人が、「私の鞄の中に折りたたみ傘が入っていますので取り出してもらっていいですか?」と私に鞄を差し出してきた。
私は助かったと思い、老婦人の鞄の中から傘を取り出した。その瞬間、私は目を見張った。これはとりもなおさず昨日私が失くした傘だ!えんじ色のチェック柄に持ち手に彫られた「M・A」のイニシャル、間違いない。「これって……」と、私が言いかけると老婦人は間髪入れずに、「あぁ、その傘、昔、息子が誕生日のプレゼントでくれたの。素敵でしょ?」と、あわてて取り繕うような口調で答えた。
「プレゼント……ですか?いったいどこで?」
「さぁ?息子がどこで買ったかまでは……とっても優しい息子だったの……」
明らかに新品の傘だし、私が聞きたいのはどこで買ったかではなくて、どこで拾ったのかだと心の声が叫ぶ。しかしいかにも寂しそうに話す老婦人を前に、これは私の傘だと言い出せない。しばらく躊躇していると、「早く開いてくださいな?」と催促された。
私は傘を開き、えんじのチェック柄をしげしげと眺めながら、こんなことなら奇をてらわずおとなしくメンズ柄の傘にしておけばよかったと真剣に悔やむ。
老婦人は普通でない私の様子に何かを感じとったのか、雨の中、一言も話さない。私は老婦人の名前を聞いて何度もイニシャルを確認しようと思ったが、そのたびに右肩に乗った老婦人の小さな手の感触がそれをすることを拒む。二人の間に長い沈黙が続いた。
やがて雨はいつの間にか上がり、陽が差していた。閑静な住宅街まで来ると老婦人は突然立ち止まり、「ここでいいです。ありがとうございました。あの……お名前だけお聞きしてもよろしいかしら?」と尋ねてきた。
私が傘を閉じながら「相川雅也と言います」と答えると、老婦人は観念したような口調で「そう……」とつぶやくと、「その傘、送っていただいたお礼に差しあげます。本当に助かりました。」と言って頭を下げた。
しかし私は咄嗟に「息子さんからもらったこんな大事な傘をいただくわけにはいきません」と、傘を老婦人に差し出していた。老婦人はためらいながらも傘を受けとると、無言で深々と頭を下げ路地に消えていった。
私は最後まで老婦人の名前を聞けなかった。帰り道、雨に濡れた草木の匂いが清々しい。
見上げると東の空に虹がかかっていた。
(了)