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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ギフト」結咲りと

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作文・エッセイ
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第67回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ギフト」結咲りと

「なあ、あんたが光男?」

 突然背後から声を掛けられる。気安く呼ばれたその名は、間違えようもなく自分の名だった。

 仕事帰り。事務所のドアを潜ると、暗雲が立ち込んでいて、陽はとっぷり沈んでいる。相変わらず、空は泣いていた。梅雨時期と言えど、随分長いこと泣いているな、と思う。自分でもここまで泣けやしない。母親が亡くなったあの日だって、涙は出なかった。

 そんなことを考えていた時だった。不意を突いてかけられた少年の声に、肩を震わす。

「返事しろよ、光男なの?」

 肩越しに振り返ると、そこには今どき珍しい、丸坊主のやせ細った小さな少年が立っていた。ヨレた真っ白のタンクトップが、しとしとと降り続ける雨に濡れ、色濃くなっている。

「そこ濡れちゃうでしょ。ほら、おいで。傘に入りな」

 私は慌ててその少年の手を引く。思っていた以上に冷え切っているその腕の冷たさに、私は慌てふためいた。こんなに冷えるまで雨に打たれていたのだろうか。ふと疑問に思うと同時に、心配になる。どこの家の子だろう。迷子だろうか。

「きみ、家は?」

 小さな頭を見下ろし、声をかける。しかし少年は私の問いには答えず、キッと睨みを聞かせ、苛立ちを抑えず、吐き出すように同じ言葉を言った。

「返事しろよ。光男なの?」

 私はその少年をしばし見つめた。不躾に人の名を呼び捨てで問うとは、一体どういう教育を受けてきたのだろう。我が娘たちが反抗期の時でさえ、私のことをそんな風に呼んだりすることはなかったというのに。

 私は小さく息を吐き出すと、「そうだよ」と小さく頷いた。

「私は光男。石井、光男」

 そう言った途端、少年は目を瞬かせて、驚いた様子だった。自分から聞いておいて何なのだろう。私はあっけに取られる。

 少年は、先ほどまでの勢いはどこへやら、細い骨ばった両手をもじもじとさせながら、その視線を私に向けた。

「ねえ、聞きたいことがあって来たんだ」

 そう、少年は言う。神妙な顔つきだったので、これは話を聞いてあげた方がいいのかも知れない。そんな気になった。

「私に答えられることなら。どうしたの?」

 傘に落ちる雨の音は不規則で、冷ややかだった。足元の革靴は、すでに雨水が侵食している。つま先が濡れているのを感じた。家に着いたら、まずは靴下を脱がないと家に上がれないな、とぼんやり思う。

 少年はそっと視線を落とし、小さな声で言う。聞き溢しそうな程、小さな声。それでも私が聞き漏らさなかったのは、多分、つい先ほどまで考えていたことと、関係があったからだと思う。

「おふくろが死んで、今、どう」

「……どう、っていうのは?」

 何故この男の子がそんなことを知っているのか、なんて疑問に思わなかった。それよりも、感情の方が優位に動き、その話の先を促していた。微かに感じていた懐かしさと親しみ。その感覚が、私に安堵を与える。

「俺は、ひとが嫌い。どうでもいい。……でも、すっごく寂しいんだ」

 傘の内側で、雨ではない雨粒がいくつも地面に落ちる。少年は、肩を震わせ泣いていた。その姿に既視感を覚えたのは、何故だろうか。私に、こんな過去はないはずなのに。

 少年を見下ろし、暫く見つめた後、そっとその方に左手を置いた。その薬指に、街灯の光を受けて鈍く光るシルバーリング。ふと、脳裏に妻の顔が浮かんだ。

「……親父が、許してやってくれって。そう言ってくれたから」

 少年は、涙にくれたその顔を上げ、私を見つめる。その目には期待と、不安と、絶望。様々な感情が入り混じっていた。その涙を無造作に指で拭い、私は微笑む。

「大丈夫。好きになれる人に、ちゃんと会える」

 最後に見た少年の顔は、大きく目を見開き、そして力なく、でも確かに微笑んでいた。私は一度瞬きをする。その一瞬の間。少年は、目の前から消えていなくなっていた。慌てて通りを見渡すも、その面影はない。

 しかし、その彼のおかげで思い出したことがあった。私は母が亡くなった時、涙したのだ。大いに泣いた。何故私を置いて行ったのだと。もっと愛して欲しかった、抱きしめて欲しかったと。そうやって、届くはずのない手を伸ばし続けたあの日を。

 頬を伝う何かに気が付いて、そっと指でなぞる。そこには、雨ではない雫があった。ふと目に着いた地面。滲む痕は、間違いなく少年がそこにいたことを語っていた。

(了)