阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「サキさんのがま口」太田奈津子
「サキさん、そのがま口いつも持っとるけど、使いよらんよねえ?」
「これか。これは忘れものなんよ、大事な人の。」
サキさんは古びたがま口をぽんっと座卓の上に放り投げた。
「大事な人のものにしては扱いが雑すぎじゃねえ。」
「ええのよ、ここにあるってわかりゃあ、それで。」
サキさんは一日のほとんどの時間を窓際に置かれた回転いすに座って過ごす。杖と足を器用に使って椅子の向きを窓の方に変えると、
「ここから空がよう見えるんよ。あんたのとこからは見えんやろ。こんど夜に来てみんさい。星がきれえやけえ。」
と空を覗き込みながら言った。
「意外とロマンチストなんやねえ、サキさんは。二階のうちの部屋からだと駐車場の屋根しか見えんよ。」
「そりゃあつまらん。それじゃあ何のために生きとるんかわからん。」
「そこまで大げさな話じゃないと思うがねえ。」
市営アパートの自室にこもりがちなサキさんの話し相手になれればと、私はときどき五階のサキさんの部屋を訪ねた。サキさんは私より二まわりも年長だったが敬語で話しかけられることを嫌がった。その理由は「あんたは私と同い年に見えるから」という甚だ失礼なものだったが、そんな少し毒のある言い方をするサキさんが私はけっこう好きだった。
「ちょっと来てほしい。」
とサキさんから電話があったのは暮れも押し迫ったある日の午後だった。正月用のしめ飾りでもを買ってきてほしいということだろうと見当をつけ、私は田舎から送られてきた干し柿をいくつか持ってサキさんの部屋に行った。干し柿を手渡すとサキさんは押し入れのふすまを引き、上段に据えられていた小さな仏壇に供えた。ここに仏壇があることを私はそれまで知らなかった。
「あんたにちょっとお願いがあるんやけど。」
サキさんは切り出した。
「そこの、それ。」
とサキさんが指さしたのは座卓の上に無造作に置かれたあのがま口だった。
「これはわたしのお母さんのなんよ。お母さんはがま口を忘れて買い物に行ったきり帰って来ん。」
「サキさんのお母さん?」
戸惑う私に
「あんた今、お母さんの年、勘定したやろ。お母さんは二十四。二十四歳で買い物に行ったきり帰って来ん。」
サキさんはニヤリと笑って言った。
私はサキさんがまたいつもの何かオチのある話をするのだろうと思って黙って話の続きを聞くことにした。
「お母さんは買い物行くときにいつもこのがま口を持って行きよったんよ。だけどその日はなんでかわからんけど忘れていった。雨が降りそうで慌てたんじゃろうってあとからお父さんは言いなさったけどどうじゃろうか。とにかくその日からお母さんは帰って来ん。」
サキさんは撫でなるとがま口はカサカサと音をたてた。
「百円札が三枚入っとるんよ。晩のおかずを買いにいくつもりやったんやろうねえ。」
思わぬサキさんの告白に私は居ずまいを正した。
「私はずっとお母さんはこれを取りに家に戻ってくると信じとった。今でも信じとる。だから毎晩空の星に向かって『私はここにおるよー。』って言いよるの。前の家はとっくになくなっとるから教えてあげんといけんと思ってね。でもお母さんはどうもここがわからんみたいなんよ。じゃけえ私が届けてあげることにした。」
サキさんはしんみりと言った。母のもとに行くその日が来るのが近づいていると感じているのだろうか。
「でもね、私もお母さんと同じで忘れんぼうじゃけえ、がま口を持っていくの忘れそうなんよ。あんた、これ預かって私の棺桶に入れてくれんかね?」
やっぱりサキさんはサキさんだ。
二人で顔を見合わせて笑った。笑っているうちに何故だか涙がこぼれてきた。
(了)