阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「無帽地帯」石黒みなみ
玄関を出たところで、近所の若夫婦が通りかかった。頭に手をやって帽子をかぶっていることを確かめた。若夫婦は私に気がつくとすぐ、手を口でおおって顔をそむけた。私もしかたなく口を手でおおい、顔をそむけながら歩き出した。新しい生活様式にはいつまでたっても慣れることができない。
正体不明のウイルスが蔓延したのは、学生時代だった。会話や会食で飛ぶ飛沫感染が主だということで、マスクが必須になり、会食は控えなければならなかった。人との距離を保つことが推奨された。ワクチンが開発されても、新しい生活様式が残った。
その後、様々なウイルスが出て来ては、多くの人が亡くなり、ワクチンが開発されるという繰り返しの中、次々と新しい生活様式ができた。私は生き延びて百歳のじいさんだ。最近蔓延しているウイルスは、髪の毛を介して伝染するとのことで、外出時は帽子をかぶって出かけなければならない。昔、水泳の授業でかぶっていたような頭にぴったり吸い付くようなキャップが推奨される。髪の毛が一本もはみ出さないようにかぶるのが正しい。あるとき、首相の会見時に、キャップから「毛がはみでて見えている」と大騒ぎになったことがある。私のようにもうほとんど頭の毛は残っていなくても、帽子なしに外を出歩くと、白い目で見られる。理美容は命がけの仕事になり、店は激減した。男女とも、自宅でバリカンを使って坊主にしている人が多い。髭はウイルスが少ないらしいが、それでも髭面はもう見ない。
毛の長い動物もウイルスを運ぶ。昔は毛足の長いかわいい動物が「モフモフ」という言葉と共に流行ったものだが、今は忌み嫌われる。モフモフのペットを飼っていた人たちは泣く泣く殺処分しなければならなかった。私もその一人だ。チンチラのフワ君を保健所に連れて行ったあと、妻は体調を崩して先にあの世に行ってしまった。妻の白くなってもフサフサしていた髪が恋しい。
先日テレビを見ていたら、私と同年代の俳優が、うっかり「昔つきあっていた女の子はフサフサした長い髪が素敵だった」と言ったところ、そばにいた坊主頭の若い女優が眉をひそめた。今の若者にとって「フサフサ」「モフモフ」という言葉は、いかがわしい雰囲気がするらしい。
駅前の通りに出ると、老いも若きもみな帽子をかぶり、互いに距離をとって歩いている。若者はそれぞれ工夫をこらしたデザインの帽子をかぶっている。最近目立つのは長い角を思わせる突起物のついた帽子だ。色とりどりで、ビーズや革などでしゃれた感じになっている。最先端の若者はまるで槍のように長いものをつけて歩く。これなら互いに距離をとることができ、新しいウイルスが出てきたとしても防ぎやすいそうだ。若者のファッションに眉をひそめる大人たちもこれは歓迎らしい。感染しても重篤化しにくい若者からウイルスが広がることを防げるからだ。それにしても女の子だけでなく、男の子も、一番美しい時につややかな髪を隠しているのは悲しい。恋人たちはお互いの髪に指を入れてまさぐるなどということはもうない。それどころか、寄り添って歩きもしない。そのうち人間はみな、透明なカプセルに入って移動するのではないのか。
こんなに長生きしたくなかった。妻もフワ君もいない。酒を飲み、ライブで盛り上がった友人たちのほとんどは、何かのウイルスにやられて死んでしまった。我々は恐竜よろしくいさぎよく絶滅したほうがましではないか。
足は駅の裏手に向いていた。先日、まだ唯一元気な友人が教えてくれた場所だ。
「俺も妻を看取ったら行くつもりだ。行って帰ってきた奴はいないよ」
昔はアーケードのある商店街だったが、入り口に頑丈な扉がついていた。インターホンを押すと「モフモフ」と優しい女の声がした。年甲斐もなく恥ずかしさと嬉しさを感じながら、教えられた通り「フサフサ」と返した。IDやパスワードでなく、合言葉というのがまたいい。軋みながらドアが開く。
「ようこそ、無帽地帯へ」
という明るい声と共に、つややかな長い髪をした若い女がにっこり笑って立っていた。その後ろに続く通りを歩いている人々は、誰一人帽子をかぶっていない。居酒屋やライブハウスが並ぶ通りを、人々が肩を寄せ合って歩いている。女を抱き寄せて髪をなでている男がいる。これだ。こうでなくちゃ。私は帽子を頭からむしり取ってその場に投げ捨てた。頭がすっきりとし、さわやかだ。なんと猫カフェの看板も見えるではないか。男も女も頭をむき出しにして歩く光景に少し気恥ずかしさを感じながらも、私は奥へと進む。もう戻らない、と思いながら。
(了)