阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「釣果」赤沼裕司
夕方まで降っていた雨が止んで、私は近所の川に釣りに来た。雨の後というのは意外と大物がかかったりする。夕食までの一、二時間糸を垂れるつもりでやってきた。
数日来の雨で川は増水している。流れも速く水も濁っていて、いつもより釣り客は少ない。しかし私は以前、こういう状態の川で大きなナマズを釣り上げたことがある。大きめのミミズを針につけ、竿を振ってボチャンと川に投げ込んだ。
この辺りはそれなりに都会で、川にはゴミも多い。流れるウキを目で追っていると、枝や草だけでなくビニール袋やペットボトル、段ボールなんかも流れてくる。そういうものを糸に引っ掛けないように気をつけていると、不意にウキがズボッと沈んだ。
ここぞとばかりに竿をグッとアワせると、強い手ごたえを感じた。早くもナマズが食いついたか、と思ったのも束の間。竿は重いが、生き物の反応ではない。どうやらゴミか何かを拾ってしまったらしい。
濁った水から上がって来たのは、黄色い野球帽だった。子ども用だろうか、見たことのないマークが額に大きく入っている。
川に戻すわけにもいかないので、針から外してひとまず足下に放った。仕方ない、後で持ち帰って捨てるとするか。そう思って再び針に餌をつけていると、岸沿いに男の子が一人、トコトコ歩いて私の方にやってきた。
「おじさん、その帽子」その子は私が釣り上げた帽子を指差して言った。「おくれよ」
「え? 欲しいのかい……?」
その子はうなずいた。私にとってはゴミでしかないのだから構わないが……いいのだろうか? 親は近くにいないのか? こんなものを渡して、あらぬ因縁をつけられても困る。
「くれないの?」とその子が続けた。どうやら親は一緒ではないようだ。それならまあいいか。
「いいよ、持っていきな」と私は答えた。その子が帽子を手に取ろうとしたその時、「ズルい!」と声がした。
見るともう一人、別の男の子が同じ道をやってきて「僕だって欲しい」と言い始めた。
「僕が先に見つけたんだぞ」「でも釣ったのはお前じゃないだろ」などと二人はケンカを始めてしまった。取っ組み合って川に落ちでもしたら困る。こらこらと私は仲裁に入った。
「おじさんは僕にくれたんだろ」と先に来た子が主張したが、後から来た子に泣かれても困る。
「どちらでもいいから二人で仲良く決めなよ」と私が言うと、二人はそんなの無理だという顔をしてこう言った。
「じゃあおじさん、もう一つ帽子を釣っておくれよ」
困ったことになった。狙って帽子を釣り上げるなんて、ナマズを釣るよりよっぽど難しい。しかし二人は頑として譲らず、並んで座り込んでしまった。仕方ない、そのうち飽きて帰るだろう。私は釣りを再開した。
二人は無言で食い入るようにウキを見つめている。三十分も放っておけばいなくなるかと思ったが、一時間経ってもまだ動かない。じっと私にプレッシャーをかけ続けている。おかしなもので私も彼らに気圧されて「帽子よ早く釣れてくれ」と思い始めていた。
「頼む!」と念じて竿を振ったその時、下流の釣り客がバシャバシャと何かを釣り上げた。
「あーあ、引っ掛けちまったよ」そう言ってその男が針から外したのは、なんと黄色い野球帽だった。
二人の子は一斉に立ち上がって、その男の元へ走っていった。
こんな偶然あるものかと思ったが、ともあれ私は解放された。今のうちだ。私はそそくさと上流へ逃げ出した。
全くおかしな釣りになってしまった。今日はこのまま引き上げようかと思ったが、結局魚は一匹も釣れていない。もう少しだけチャレンジして帰ろうと、場所を変えて再び水中へミミズを投げ込んだ。
しかしそうそうアタリは来ない。今日はリズムが狂ったし、また今度出直すか。そう思った矢先、ウキがどぷんと沈んだ。
私は強く竿を上げた。起死回生の一匹……と思ったのはまたも束の間、またしても無生物の手ごたえ。恐る恐る糸をたぐると、今度は小さな赤い靴が一つ、針にかかっていた。
苦笑しながら針を外し、靴を足下に放った時、私は嫌な予感に襲われた。上流の方からパタパタと足音がする。
見ると小さな女の子が、今度はまとめて二人やってくる。また欲しいと言い出すんじゃないだろうな。
待てよ、今度は靴だ。しかも釣れたのは片方だけ。二人用には、あと三つ……。
(了)