阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「いい夫婦」三郎
選りに選って熱中症危険度が厳重警戒レベルの昼下がりに、墓を買いに行くと夫が言い出した。「涼しくなってからでもいいのに。まったく気まぐれなんだから」と妻が愚痴をこぼす。
ウォーキングの途中で、『樹木葬墓地グランドオープン』と高台にはためくパチンコ店のような派手な幟に吸い寄せられて寺の石段を上ったのはひと月ほど前のことだった。「こういうのを望んでいたのよ。お墓なんて死んだ人は知らぬが仏でこの世の人の見栄とプライドなんだから贅沢する必要なんてないわ」と乗り気の妻に、「同感だが、死後の墓暮らしは長いのだから衝動買いは避けよう」と夫は寝かしていたのだが、「石橋を叩いて渡ると言えば聞こえはいいけれど、あなたの場合は単なる臆病、優柔不断、家を買う時だって――」と妻が痺れを切らした。妻の言う通りマイホームも絶好の買い時を逃した夫は妻の直観、先見の明に急に賭けてみようと決断したのだった。
「売り切れてないかな?」とその気になった途端に焦り始めた夫を、瓜実顔がせせら笑う。「特売の卵じゃあるまいし、お墓がホイホイ売れるもんですか」
退職して肩書きがとれてから、夫は外出する際に必ず帽子を被るようになった。鬘よりその方がはるかに心地いいからだ。「特に夏場は最高だな。蒸れない」「高級品はそうでもないそうよ。安物はだめ、春一番に吹き飛ばされて川に流されていくのを二人で見送ったことがあるわね」――そんな会話をかわしながら、家や木々の陰を選んで墓地に向かう。
桜の若木を背にして石造りの観音様、その足元に百基ほど並んだ墓石代わりの石のプレート――その構図を一目で気に入ったのは愛犬が眠る合同墓によく似ていたからだ。
東日本大震災のとき、「ロッキーは大丈夫か?」とやっとつながった電話に親よりもペットの安否をまず尋ねた外出先の息子……オムツをした、人間の年齢に換算すれば白寿超えの老犬の悪臭を微塵も厭わず、まるで『フランダースの犬』のネロとパトラッシュのように一つ毛布にくるまっての介護……最期の日の早朝、リビングの灯りを点けた夫はギョッとしたのだった。息子が哺乳瓶(それで水を与えていたのだ)片手にロッキーを抱いて涙ぐんでいた。「二時頃までは生きてたんだ。今までありがとな」と冷たくなった思春期以来の相棒の身体を息子は何度も撫で擦った……そんな息子がロッキーのために選んだのが立派な建物の中にある箱型の個別墓ではなく野天の合同墓だった。「電気を点けなければ真っ暗な墓なんて嫌だ。ここなら夜空の星も仰げるし、雨に濡れることも、風を嗅ぐことも出来る。何よりも一人ぼっちじゃない、お仲間がいっぱいいるんだ」と、息子は譲らなかった。
月命日のたびに花束を抱いて墓参する息子を見ているうちに、夫と妻は同じ願いを抱いたのだった。
「ロッキーのお墓みたいなのがいいな」
墓地は見晴らしのいい高台にあって、クチボソや鮒が釣れる小川が眼下にある。
「マイホームより墓のが日当たりがいいとはな」と夫。
「地盤が強固で、東日本大震災でも墓石一つ倒れませんでしたよ」と太っちょのセールスマン。
「墓のない人生ははかないっていうでしょ。千の風なんかに私はなりたくないわ」と妻。「ウチは墓石屋なんですが、私達もお寺さんも最近困っているんですよ。風になりたがる方が増えて」と調子のいい太っちょにつられて、夫もつまらぬ駄洒落を並べる。
「成仏出来なくて風になるのは私もどうも……暑がりの夫の墓に女房がそっと日傘をさす、そんな風情に憧れるんです……墓の下の骸骨暮らしって長いからジメジメしてない快適な台地……願わくは西行法師のように花の下、ならば樹木葬……」
契約書に押印して帰り道、「何だかホッとしたわ。早目にお墓を買ったり、生前葬をしたりすると長生き出来るというでしょ」と炎天に向かって深呼吸をする妻が夫は心配になる。義祖母も義母も苦労から解放された途端に認知症になった血筋なのだ。
「それにしても暑い」
「鬘じゃないんだから、日陰では帽子をとればいいのに。とても気持ちいいわよ」
けれど、夫は暑くたって帽子を被っていたかった。何しろ、妻と男用・女用のペアで買った帽子なのだから。
(了)