阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「相乗り」石川茂
苦情処理が済んだのは深夜だった。外に出ると激しい雨だった。傘は持っていない。近くのコンビニに駆け込んだ時には、スーツはびしょ濡れだった。終電は過ぎている。
ちょうどいいタイミングでタクシーが駐車場に入ってきた。声をかけて乗ろうとすると、
「すいません。」
後ろから話しかけられた。初老の男である。
「よろしかったら相乗りしませんか? 別のタクシーを呼んだら時間がかかりそうなんで。」
話を聞くと、目的地の方向は一緒である。
特に断る理由もないので承諾した。後部座席に乗り込む。彼が先で私が後。シートに沈みこみ目を閉じる。雨とエンジンの音、規則正しいワイパー音が眠気を誘う。
「いつもこんなに遅いんですか?」
彼が話しかけてきた。面倒くさいなあと思いつつ、「ええ。」と気のない返事をする。
「一年ほど前、同僚が自殺しましてね。」
縁起でもない話をしてくる。
「訳あって閑職に押しやられて、精神を病んだんですよ。死んだのは、ちょうどこんな雨の夜でした。」
相槌は打たなかったが、彼は続けた。
「実は最近、その同僚の幽霊を見たんです。おたく、幽霊って見たことあります?」
唐突な話なので勢いに押された。
「いやあ、見たことないですね。」
「幽霊って、ひゅ~どろどろと突然出てきて、こちらを驚かすものだと思っていたんですが、同僚の幽霊はちょっと違うんです。」
「ほう。」
「夜遅くに、会社に一人残って書類シュレッダーにかけていたのですが、いつの間にか現れて、にやにや笑いながら私を見ているんです。」
「にやにや笑う幽霊ですか?」
「そう。わっと驚かすのではなく、笑って見ているだけ。その時、私は怖いというよりも、腹が立ってきたんです。何、にやにや笑って見てやがるのかって。」
雨が激しさを増してきた。
「窓際に押しやられて、一日中、膨大な量の書類をシュレッダーにかけ続け、定時になっても終わらず、気が付いたら他の社員は全員帰ってしまって、深夜になっても延々と一人で書類を裁断している俺のことを馬鹿にしているな、と思ったわけです。」
男は吐き出すように言った。
「それは相当つらい仕事ですね。」
彼は身を乗り出してきた。
「うちの会社は最悪なんです。先代の社長の頃はよかった。しかし、先代が亡くなり、二代目がトップになってからおかしくなった。」
「ほう。」
「二代目の放漫経営のために業績は下がるばかり。社長に苦言を呈した人間は閑職に押しやられていく。同僚もその犠牲になった一人です。私は先代からの貢献者ということで、多少の苦言は受け入れられていたのですが、とうとう二代目は私まで窓際に押しやった。」
「しんどいですね。」
「私は、同僚の幽霊にたまらず叫んだんです。馬鹿にするな、にやにや笑うな、と。そしたら、奴が言い返してきたんです。お前こそ俺のことを馬鹿にしていただろ、でも、結局、お前も俺と似たようなものさ、って。」
「きつい言葉ですね。」
「でも、思いました。あまり世渡り上手とはいえなかった彼のことを心の底では確かに軽く見ていたな、と。」
男はしばらく沈黙した。それから静かな声で言った。
「考えてみれば、人間って愚かなものですなあ。誰もが貧乏くじを引かないように細心の注意を払いながら普段生きている。そして、弱い者を見て見ぬふりをする。」
「確かに。」
「存在を無視される方は、そりゃあ、つらいものですよ。透明人間にでもなった気分です。」
私は頷いた。
「でも、あなたは見て見ぬふりをするような人ではないでしょ?」
「いやあ、私も知らないふりをする人間かもしれません。」
「あなたは相乗りに快く応じてくれた。」
「その程度のことぐらいならできますよ。」
「この世知辛いご時世、それすらも拒む人間も結構おりますからなあ。」
タクシーは目的地についた。雨は小降りになっている。そこまでの料金を彼に渡し、出ようとすると、運転手に呼び止められた。
「お客さん、料金払ってくれなきゃ困るよ。」
「彼が最後にまとめて払いますので。」
きょとんとする運転手を見た私は、はっとし後部座席を見た。彼の姿はなかった。
「乗ったのはあなた一人だけだよ。しかし、お客さん、あなた変な人だね。乗車中ずっと独り言を言っていたし。」
(了)