阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「イタコの口寄せ」池平コショウ
暗闇に目が慣れるにつれ少しずつ部屋の様子が分かってきた。天井近くに明かり採りの欄間が開いていて夏の太陽から枝分かれを繰り返した薄日が垂れ下がっていた。
部屋はひんやりと心地よかった。見回していると、暗がりからこちらを見つめている老婆と目が合って心臓が止まるかと思った。
紫の装束を来た老婆は背筋を伸ばし、シャンと正座していた。背後には祭壇が飾られなにやら梵字が掲げられている。梁から渡された注連縄(しめなわ)の神垂(しで)が揺れている。風が動いているらしい。
老婆にすすめられるままに板の間の座布団に座る。たずねられるままに名前と年齢を答えた。「清水久子。三十二才です」
「どういうご用件でお越しだすか」
遠方からの来訪者にも理解できるようアレンジした方言を話すようだ。
「母のことで」
久子が言いかけると、すかさず老婆が言葉を引き受けた。
「お母さまはいつお亡くなりすか」
「母は生きている」久子はいったん言葉を飲み込んでから続けた。「と思います」
老婆の表情に困惑が浮かぶ。
「ここは亡くなった人と話をする場所」
「存じております」
「どういうことだすべ」
久子は遠慮がちに話し始めた。
「母が生きているかだけでも知りたくて」
「お母さんが今、どこにおられるのか分かっていないのだすな。現世かあの世かも」
「はい」久子は老婆を見つめなおした。
「先日、テレビであなた様を拝見しました。死んだ者の魂を呼び寄せる力があると」
「その通りだす」
「あなた様にお願いして、母の魂を呼び寄せてもらおうと思いました」
「生きている人は呼び寄せられねえす」
「もし、あなた様を通じて母と話しができたら、母は死んでいる、ということ。話しができなかったら、母は生きている」
久子は一気に話すと自分を落ち着かせるように深く息をした。
「なるほど。いいでがしょ。やってみましょう」老婆は脇にあった小さな文机を引き寄せ筆を取った。
「他人を呼び寄せちゃなんねすで、久子さんの身上をお聞かせくだんせ」
久子は話し始めた。
東京のベッドタウンで生まれたこと。母親は久子が幼いころに蒸発したこと。そのあとは父が男手ひとつで育ててくれたこと。そんな父にも思春期特有の悩みは打ち明けられず、それがきっかけでグレたこと。高校を卒業して地元の洋品店に就職したこと。店主のセクハラで洋品店をやめたこと。
老婆は筆を止めて久子を見つめている。
何種類かの職業を転々としたこと。人にすすめられて受講した職業訓練で今の夫と出会ったこと。結婚を見届けるように父親が死んだこと。今、おなかに新しい命が宿っていること。
「お母さんのことを恨んでるすべな」
「はい。恨んでいます」深くうなずいた。
「父に苦労させたのは私のせいでもあるんですけどね」久子はぎこちない笑顔を作った。
老婆は袂の紙で鼻をかんだ。しばらく沈黙があって久子が口を開いた。
「自分が親になると分かったら、なぜだが母親のことが気になって」
老婆はうんうんとうなずき、文机を脇に押し返した。
「そんでは、喜久子さんを呼び寄せてみましょうか」
「お願いします」久子は居住まいを正して老婆に向きなおった。
老婆は目を閉じて呪文を唱え始めた。同時に両手の指をさまざまな形に組み替える。最後に腹の底から響きわたるような「うっ」とうなり声を上げたあとゆっくりと目を開いた。 「喜久子さんはあの世にはいらっしゃらないようだすな」
久子の目が輝いた。「そうですか」
久子は晴れ晴れとした表情でおなかをさすった。赤ん坊に報告するように。
老婆が何か言いかけると久子がさえぎった。
「驚きました。こんな偶然もあるんですね」
「どこで気づいたのですか」老婆は標準語できいた。
「母親の名前をお知らせしていなかったのに、喜久子って呼んだから」
「ああ、私としたことが」
喜久子は頭をかいて苦笑した。
「母が死んでいたらここに呼び寄せてもらって、恨みつらみをぶちまけよう、と思っていたのですが」久子はふっ切れたようにつぶやく。「生きている母を目の前にしたら何も言えなくなりました」
老婆は深く頭を下げた。
「この子が生まれたらまた来ます。おばあちゃんに見てもらいに」
(了)