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ヨルモの「小説の取扱説明書」~その16 神の視点~

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作文・エッセイ
小説の取説

公募ガイドのキャラクター・ヨルモが小説の書き方やコツをアドバイスします。ショートショートから長編小説まで、小説の執筆に必要な情報が満載の連載企画です。

さて、第16回目のテーマは、「神の視点」についてです。

全てを見通す「全知視点的(神の視点)」な書き方

小説には、全知視点という書き方があります。

神の視点、作者視点とも言います。

神の視点と言うのは、宗教的な神という意味ではなく、天上から俯瞰する視点で情景を見たり、わかるはずのない自分以外の人の内面や登場人物の行く末まで見通せたりする、つまり、“神のよう”という意味です。

作者視点という言い方は厳密には違います。作者は生身の人間で、理論的にはメタレベルにいる存在だから、作中には登場できません。強いて言えば語り手視点ですが、語り手という存在が世間一般にはあまり一般的でないので、作者視点と言うのかもしれません。

ここで、全知視点的な書き方の実例を出しましょう。

 或日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。

(芥川龍之介『蜘蛛の糸』)

ここだけ読むと、お釈迦さまによる三人称一視点の小説なのかなとも思えます。まあ、「御歩きになっていらっしゃいました」と敬語を使っているので、違うなと直感された方もいると思いますが、その直感は、「二」の冒頭ではっきりします。

 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた犍陀多でございます。

(芥川龍之介『蜘蛛の糸』)

ここで、あれ? と思いませんでしたか。「こちらは」って、この話を語っているのは誰? お釈迦さまではないよね。犍陀多(かんだた=登場人物)でもないし。

誰って、それは芥川だろうよ、と思えば、作者視点ということになります。

しかし、前述のように作者自身はライター(筆者)であってナレーター(語り手)ではない。

「神の視点」は難しい! 違和感を感じさせない昔の文豪

語っているのは、語り手です。それは「作中にはいない誰でもない人」という幽霊みたいな存在です。

いるのに、いないかのように扱われます。

なぜでしょう? 邪魔だからですね。テレビでドラマを観ているとき、横に弁士がいて、いちいち説明されたらいやですよね。だから、消したんですね。

でも、昔の小説では、この語り手がときどき、顔出ししたりします。

 諸君は、発狂した山椒魚を見たことはないであろうが、この山椒魚にいくらかその傾向がなかったとは誰がいえよう。諸君は、この山椒魚を嘲笑してはいけない。

(井伏鱒二『山椒魚』)

ご存じ、『山椒魚』の一節です。冒頭の、

 山椒魚は悲しんだ。
 彼は彼の棲家である岩屋の外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることはできなかったのである。今はもはや、彼にとっては永遠の棲家である岩屋は、出入り口のところがそんなに狭かった。そして、ほの暗かった。

(井伏鱒二『山椒魚』)

このあたりを読んでいるときはあまり神の視点とは思えませんが、そこに来て、いきなり「諸君」と呼びかけられて、「あれ、これ、誰に語りかけているの? あ、読者にか」と気づきますね。

でも、さすが、芥川も井伏鱒二も、変な感じは一つもない。こういうふうに違和感なく書ける人が、神の視点で書いていい人ですね。

(ヨルモ)

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「小説の取扱書」を執筆しているのは、ヨルモのお父さんの先代ヨルモ。