阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「この橋、渡るべからず」あべせつ
「この橋、渡るべからずだって?」
初めて訪れた恋人・友里恵の実家を目前にして、俺は途方に暮れた。長々と続く黒板塀と、並走する道路との間に幅広い用水路が流れている。城堀のようにぐるりを水路で守られた旧家の玄関にたどり着くには、唯一かかったこの小橋を渡るしかない。それなのに、そのひざ下ほどの高さの欄干に、一休さんの問答のような貼り紙がしてあるのである。
――これは、どういうことなのだろう。橋が壊れていて危ないから渡るなということなのか、それとも俺に来るなという意味なのか――
ともかく、友里恵に到着したとメールをしてみる。数分待ったが、返事はない。時計を見ると、約束の時間の三十分も前だった。
――準備で忙しいのかな。しばらく待つか――
俺は梅雨の曇天で満たされた屋敷の周りを、ぶらぶら歩き始めた。
正直、このまま帰りたかった。友里恵の両親が、俺との結婚に猛反対していると聞いていたからだ。そりゃあ、そうだろう。一回りも年上のうだつの上がらない天涯孤独の貧乏オジンと、資産家の大学出たての一人娘の結婚なんて、俺が親でも反対する。逆玉ねらいと疑われても仕方のないことだ。
――あの貼り紙、友里恵の親御さんからの拒否メッセージなのかな――
気性が激しく言い出したら聞かない友里恵をなだめるために、いったんは会うと言ったものの、どうしてもいやで、俺に察しろとあんな貼り紙をしたのかもしれない。
――それとも、あれかな。テストみたいなもんで、いい答えを出したら合格とか?――
しかし、一休のとんち話のように、「はし」と平仮名で書いてあれば、端っこを渡ってきましたなんて言えるんだろうけど、「橋」としっかり漢字で書かれちゃ、そうもいかない。
そうこうしている内に一周回って、またあの小橋の前に着いてしまった。友里恵は迎えに来ておらず、メールの返事もない。
なんだか橋が、さっきよりも長くなったような気がする。耳を澄ますが、冠木門の中は静まり返り、ただ用水路の水音だけが辺りに響いている。電話をしてみようかとも思ったが、まだ十五分ほどある。
――よし、もう一周するか――
どうにか耐えていた梅雨空から、ぽつぽつ雨が降り始めた。
――そもそも友里恵は、なんで俺と結婚したいのだろう?――
真面目だが生来の不器用さがたたって、正社員をリストラされてからは、この十年、バイトを掛け持ちして口を糊している。資格も特技もなく、人に褒められるのは容姿だけだ。
「なんでこんな仕事してるんですか? 俳優とかモデルになればいいのに、もったいない」
その台詞は、どこに行っても言われる。
バイト先に客として来ていた友里恵に、猛アタックされて付き合い始めたものの、結婚までは考えていなかった。結婚なんて、面倒だ。でも、それを友里恵に言うと、もっと面倒なことになるのだろう。
「あんたは気弱で優柔不断なとこがあるんやから、大人しいけど芯の強い世話焼きの姉さん女房と結婚し。勝気な女はあかんで。一生尻に敷かれるか、飽きられて捨てられるのがオチや」
生前の母親にそう言われたときは、酷いことを言うなあと思ったが、案外その予言は当たっているらしい。友人たちの結婚ラッシュに触発されたのか、友里恵が突然結婚したいと言い出して半年、あれよあれよという間にお膳立てがなされ、こうして本日“ご挨拶”をしなければならない羽目に陥ってしまった。
二周している間に雨足は激しくなり、傘を持たない俺はずぶ濡れで橋のたもとに立った。用水路はみるみる水量を増していき、小橋の床にまで濁流が流れ込んでいる。降りしきる雨で視界が悪いせいか、橋が随分長く見える。門を開けて迎え入れてもらわねば、足を取られて流されてしまう危険がある。俺は友里恵に電話をしたが、呼び出し音が鳴るだけだ。
――もういい、帰ろう――
俺は、きびすを返した。
「ねえ、今日、どうして来てくれなかったのよ。ずっと、待ってたのに。パパもカンカンよ。来られないなら連絡ぐらいしてよ」
その夜、友里恵の怒号が、受話器から響いた。
「行ったよ。メールも電話もしたじゃないか」
「嘘ばっかり、着歴なんてなかったわ。私たち、もう終わりね」
ガチャ切りされたとたん、なぜかとてつもなく解放された気持ちになった。
――この橋、渡るべからず。あれを貼ったのは母ちゃんかもしれないな――
ふと、そう思った。
(了)