阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「橋の向こう」gg
つうは美しく成長した。
我が子を弥七は時に不思議なものを見る心持ちで眺めるのだった。思えばあれからもう干支もひとめぐりする。それはしんしんと雪の降り積む宵のことであった。
「ことり、ことり」
夜更けに戸をたたくかすかな音。戸とはいっても、わびしい夫婦二人住まいのあばら屋である。
「はて、こんな晩に」
表を妻のタネが覗くと、そこにはほっぺただけを真っ赤にした透き通るように白い幼な子がたっていた。
「なにかめぐんでくなせえ」
たどたどしく訴えた。かわいそうに、ということで二人は家の中に迎え急いで熱い粥を与えた。
一晩だけのつもりがやがてすっかり子のない家庭にいつくこととなった。最初から「ととさま、かかさま」と懐いたものだから、彼らもすっかりその気になって、かりそめの親代わりとなった。暗いあばら屋にもほのかな灯りがともったような気がした。
そんなつうもやがて年頃を迎えた。色の白さはそのままに村でも際だって美しい娘になった。若い衆はほうってはおかない。
川向こうの大きな屋敷に太平次という若い男が住んでいた。庄屋のせがれ。跡取り息子として嘱望された身である。その太平がつうの気を盛んに引いているという噂がたった。狭い村のことである。弥七はそれを聞いて複雑な気持ちになった。彼には素行に粗野な面があり、また、女癖も悪いのだ、という評判であった。
弥七は元来無口な男であるし、それにつうは本当の子ではない。村内の人々もうすうすそのことをしっていた。つうに事実を詰問する勇気はおこらなかった。
そんなある夜つうは弥七夫婦にいった。
「ととさま、かかさま。長い間捨て子のみであるおらを大切に育ててくらっしゃって、ありがとござんした。そこで、おらは今夜、おまいさんらに心尽くしの料理をおつくりしたいんじゃ」
「これから支度をするで、決して中を見んといてほしいんじゃ。かかさまからおそわったとおりに出来るものか試したいんじゃ」
そういって奥のほうへとひきこもったのだった。
その晩もまた、雪がしんしんとふりつもる宵だった。音のない世界。時折、木の枝からドサッと雪の固まりの落ちる音が響く。その音がかえって静けさを強調するように。
弥七はその静寂の中で思った。
妻と二人きりで黙って夜を過ごすのはあの宵以来である。つうが訪ねてきたのは随分前のことのように思っていたが、今宵ばかりはついきのうのように感じられる。
そうかんがえるとつうと三人で過ごした季節もうたかたの出来事のようであった。
ふと、我に返る。
タネはうたたねをしていた。
それにしても一向に声がかからない。弥七がたまらず声をはっした。
「おい、つう、おつうや」
答えはない。
たまらず二人が台所を覗いた。そこで見たものと言えば…
「こりゃ。たまげだ!」
そう。つうが見当たらない。それはおろか、家財道具の一切がない。ないったらない。なーんにもない。
冷蔵庫からダイニングテーブル、エアコン、4K、レンジ台、炊飯ジャー。
腰を抜かした夫婦が勝手口の方をみやると、光に照らされた軒先から続く道路にスタッドレスタイヤのあとが続いていた。橋の向こうまで長々と…
「やられた!」裸足で家を飛び出した弥七は橋のたもとで叫んだ。
「110番、110番!」とタネはあわてたが、電話すらもなくなっていた。
(了)