阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「思案橋」出崎哲弥
思案橋――。
そう呼ばれる場所が各地にある。中には川も橋もなくなって、地名だけが残る例も。
ここの思案橋は、ちゃんと川の上に架かっている。夏実が住む町と隣町の境を川は流れる。昔、橋の向こう側に遊郭があった。男たちは、懐具合と相談しながら、行こうか戻ろうか橋の上で逡巡した。思案橋の名は、そこに由来するのだとか。
隣町には、現在このあたりで一番の繁華街が広がる。ビルが立ち並ぶ。橋のこちら側は、取り残されたように眺めている。
夜も更けて、橋の上に人通りはない。夏実にも若い女性としての自覚ならある。普段はこの時間にひとり歩きなどしない。いたたまれなくなって部屋から出てきたのである。もっとも、抱えた旅行バッグの中身は、数日前に詰めてあった。その時も、なかば衝動的に。
橋の中央まで歩いたところで、ひたと足が止まる。そこで、思い直して、もときた方へ、戻る。そこで、足が止まる。ふたたび、橋を渡りはじめる……。もうかれこれ一時間は繰り返しているかもしれない。
ぼん、と不意に弾力を受けて、夏実はバッグを落とした。橋の真ん中近く。ずっとうつむいてうろうろしていたので、人がいたことに気づかなかった。
「あ、すみません」
打ち合わせてあったように、相手と声が重なった。まだ十代だろうか、夏実よりいく分若い娘だった。
「ぼんやりしてて」
安心させようと、夏実は自分から言った。
「私のほうこそ。こわれものとか入っていませんでしたか?」
娘は、バッグを掌で指した。
「大丈夫です」
夏実はバッグを拾い上げて、ぽんと叩いてみせた。「それじゃ」と、すぐ橋を渡っていきたいところだったが、そうもいかない。さんざん迷ってきた経緯がある。道を譲るふりで、さりげなく欄干へもたれた。ところが娘は戸惑った表情を浮かべている。
(そうか、この子も私と同じか)
だからぶつかったのだと思いいたった。
「あなたはあちらから?」
隣町――ビルの灯りへ顔を向けて、夏実は尋ねた。
「はい」
娘は夏実の隣に並んだ。一人分間隔を空けて。そのまま、どちらからともなく川に向きを変えた。大雨のあとということもあって、橋のすぐ下が暗い流れだった。
なんとなく縁を感じて、夏実は打ち明けた。
「向こうへ行こうかどうか迷ってるの」
見ず知らずの相手だけに、かえって抵抗がない。
結婚の約束までした恋人が隣町へ行った。転職が理由だったが、次第に逢うことがままならなくなった。ついに連絡が取れなくなった。数日前、風の噂で、新しい女ができたらしいと聞いた。認めたくなかった。直接彼と話をしたい。逢えば彼の気持ちも変わるはず。都合よく考えては、自分自身で打ち消す。そんな毎日に消耗した。
「すっぱりあきらめた方がいいとわかってるんだけど……」
「割り切るのは簡単じゃありませんよね」
黙って夏実の独白を聞いた娘は、しんみりとつぶやいた。「でも」と続けた。
「その彼氏さんが勝手に浮気したんです。おねえさんはきれいだし、いくらでも新しい恋ができますよ」
「……浮気したのは彼だけど、振り返ると私にも良くないところがあったなぁ、ってそんな風に」
「うらやましいな」
「え?」
思いがけない言葉に、夏実は川面から娘へ目を移した。
「『私にも良くないところが』なんですよね。それは10パーセントですか? 20パーセント? 少なくとも半分以下でしょ。私から……100パーセント自分が悪い私からしたら、うらやましいだけです」
「……あなたは何を?」
夏実の問いに娘は答えなかった。無表情で川面を見つめていた。取るに足らないことで迷っている、と年下に呆れられた気がして、反発心がわいた。自分でも思いがけなく、夏実は橋を渡る決意をした。
「私、向こうへ行くわ。あなたは?」
「私も行きます。向こうへ」
互いに別れを告げた。
対岸へと歩きながら、夏実はふと思い出した。橋の中央へ向かう夏実にぶつかったのは、娘の肩、側面だった。あのとき彼女は、川へと進んでいたのである。
――『私も行きます。向こうへ』
重い水音がした。
(了)