阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「サキさんのこと」太田奈津子
九番はロッカーのいちばん上の段なので背の低いサキさんには使いづらい。それなのにサキさんはわざわざ踏み台を持ってきて九番を使っていた。
「寿々の湯」に初めて来た人はそんなサキさんを見るときまって「ほかのロッカーも空いとりますよ」とか「よかったらここを使ってください」とか声をかけるのだが、サキさんはそのたび「ご親切にありがとう。でもわたしはここがええんです」と断った。
だからサキさんが九番のロッカーを使うことは客の誰もが知っていたし、そもそも九という数字はみんな嫌がって使いたがらなかったのでサキさんが来た時に空いていないということはなかった。「寿々の湯」のロッカーに番号をつけるとき、主人は四番は縁起が悪いと言って抜かした。でも九番はどうしたわけか抜かさなかった。
サキさんは近くの団地で一人暮らしだった。団地の部屋にも風呂はあるが、サキさんは毎日午後八時に「寿々の湯」にやってきた。午後七時にNHKのニュースを見ながら晩ご飯を食べて八時に「寿々の湯」へ行く。帰ってからまた九時のニュースを見て十時に寝る、というのがサキさんの日課だった。いちどだけ午後三時頃来たことがあるが「年寄りはしまい湯の方がええ」と言って、それ以後早い時間に来ることはなかった。「寿々の湯」の定休日の日曜日はその時間、大河ドラマを見て過ごすのだそうだ。サキさんは歴史に詳しくて、ときどき他の客と武将やら城やらの話をしていた。ちんぷんかんぷんな番頭さんは「サキさんは戦国時代から生きとるけえ、さすが詳しいわ」とからかった。するとサキさんも「本能寺の変の時はちょうど京都におって、明智光秀がコソコソしよるんを見た」と言い返したりした。
団地に引っ越して来る前のサキさんがどこでどんな風に暮らしていたのか、家族はいるのかということは誰も知らなかった。
その年の冬はとても寒かった。「もっと早い時間に来たらよかろう」と番頭さんがすすめたが「せっかくぬくもった体が寝るまでに冷えるけえ」と言ってサキさんはどんなに寒くても午後八時に「寿々の湯」に来た。「一人暮らしのばあさんじゃけえ決まった時間に来る方が生きとるって確認できてええわ」と番頭さんもそれ以上は言わなかった。
サキさんは元気だったが「寿々の湯」の方が持たなくなってきた。風呂なしのアパートがこのあたりには何軒もあって学生も多く住んでいたが、次第に借り手がなくなりアパートは取り壊されていった。持ちつ持たれつの関係の一方がだめになればもう片方もだめになる。「寿々の湯」も廃業せざるを得なくなった。
「寿々の湯」の最後の日、サキさんはいつものように午後八時にやって来た。そして風呂から上がったあと長椅子に腰掛けて「今日は九時のニュースは見んでもええ」と言った。
番頭さんが「なんでサキさんは九番のロッカーばっかり使いよったん」と聞いた。サキさんは「九は苦しみにつながるけえ誰も使わんやろ。じゃけえわたしが使うてあげたんよ」と返した。「サキさんは九番でも平気なんかね」と番頭さんが聞くと「わたしがみんなの苦しみを背負うてあげとるんよ」と笑いながら言った。笑いながら泣いているように見えた。番頭さんは、サキさんには苦しい思い出があるのだなと思った。でも聞いては悪いと思ったので「明日からお風呂はどうされるんかね」と聞くと「さて、どうしようかね」とサキさんはこたえた。
「寿々の湯」はそれからひと月ほどは片付けや廃業の手続きに忙しかった。少し落ち着いてきたころ、番頭さんはふとサキさんはどうしているかと気になり、団地を訪ねることにした。駅前の和菓子屋に寄ってサキさんが好きだと言っていた利休饅頭を買い、一度家に戻って机の引き出しに入れておいた紙袋を持って出た。サキさんの部屋は団地の五階でエレベーターはなかった。チャイムを鳴らしてしばらくたってから玄関に現れたサキさんは、ひと月見ない間にひとまわり小さくなっていた。
サキさんは番頭さんの訪問を喜んで「何もないけどおあがりなさいな」と部屋の中に招き入れた。物が少なくてきれいに片付いた部屋はお線香の匂いがして、仏壇には四つの位牌が並んでいた。
番頭さんが利休饅頭を差し出すとサキさんは「おとうさんはみっつ、かずちゃんはふたつ、あきちゃんとゆきちゃんはひとつずつ」と言いながら箱から出した饅頭を皿に並べて仏壇に供えた。
番頭さんは、サキさんが「わたしがみんなの苦しみを背負うてあげとるんよ」と言ったのはサキさんの家族と関係があるのだなと思った。
番頭さんが持って行った紙袋には「寿々の湯」のロッカーの九番のかぎが入っていた。記念にあげたらサキさんが喜んでくれるだろうと思って捨てずにとっていたのだが、番頭さんはそれをサキさんに渡さなかった。サキさんにはもう苦しんでほしくないと思ったからだ。
(了)