阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「壺のなか」吉岡幸一
「お客さん、お目が高い。この壺は掘り出し物ですよ」
月に一度、神社の境内でフリーマーケットが開かれていた。近くに住む老齢の夫婦は毎月欠かさずやってきていた。夫は壺を集めるのが趣味で、妻はくだらない壺を夫が買わないように見張るためについてきていた。
お目が高い、という言葉に夫は弱かった。夫が見ていたのは片手で握れるくらいの蓋のついた壺で、花を一輪さすのにちょうどよい大きさだった。水仙の花が咲き乱れた山並みと、鏡のように透明な湖が描かれていて素人目にも美しい壺であった。
「いくらですか」と、財布に手を伸ばしながら夫が聞くと、隣にいた妻は慌てて値札をみた。きっと高いに違いないと思って見たようだが、値札には値段が書いていなかった。
「気に入ったのなら、ただで差し上げますよ。ただし飾るだけで、蓋を開けて中を覗き込まないようにしてください。いいですか」
店主は半分笑いながら言うと、ふたりがなにも返事をしないうちに壺を新聞紙で包み手渡した。受け取った夫は「蓋など開けませんよ。壺を眺めているだけで充分です」と、愛想笑いを浮かべ、店主の気の変わらないうちに妻の手を引いて急いで家に帰っていった。
夫婦の家にはこれまで集めた壺がいたるところに置いてあった。価値のある壺も価値のない壺も混ざっていたが、壺の価値のあるなしなど夫にはわからなかった。ただ気に入った壺をそこら中に飾って楽しんでいるだけであった。妻は壺になど興味がなかったが、夫の趣味を止めさせようとは思っていなかった。
この日買った壺は玄関の靴箱の上に置いた。明るい水仙の花が描かれていたので玄関にあると映えるような気がしたからだ。
「お店の人は蓋を取ってはいけないって言っていたけど、お花をさしたら素敵だと思うの」
妻は壺の上をふさいでいる蓋を取ろうと手にかけた。夫は止めさせようとして妻の掌を押さえたが、わずかに間に合わず蓋が少しだけ開けられてしまった。
蓋と壺の隙間からはギューギューという音が聞こえてくる。あたり一帯の空気が壺の中に吸い込まれていた。
「どういうことだ。掃除機みたいじゃないか」
夫が驚いているあいだに、妻はポケットから食べた後の飴の包み紙を取り出すと、壺に吸い込ませた。包み紙はあっという間に壺の中に吸い込まれていった。
妻はなにか気づくことがあったのか、そのあと履き古した長靴を棚から取り出すと、同じように壺に吸い込ませた。長靴は壺よりも大きくてとても小さな壺に入るような大きさではなかったが、あっさりと壺の中に収まってしまった。
「これは便利なものを手に入れたかもしれないわね」
唖然としている夫に妻は嬉しそうに言った。
それから壺は便利なゴミ箱として使われた。ありとあらゆる物を吸い込み、どこかに運んでしまう便利な道具となった。あまりに吸い込む力が強いので、壺の蓋を全部とることはなかったが、わずかな隙間を作るだけで、近くまで持ってくれば何でも吸い込んでくれるのでそれで充分だった。
ある日、夫婦は喧嘩をした。味噌汁の味がいつもより薄いことに夫が腹を立てたのだった。妻はたまたま機嫌が悪かった。大事にしていたダイヤの指輪を割れたボタンと間違って壺に吸い込ませてしまったからだ。
「味噌汁の味はいつもと一緒です。あなたの舌が老化しただけですよ」
妻の言葉に怒った夫は居間にあった新聞や蜜柑などを投げつけたが、壺を持っていた妻はことごとくそれらを吸い込んでしまった。
「俺の壺は掃除機なんかじゃないぞ」
「もうこの壺は私のものです」
妻は勢いよく壺の蓋を全部剥がすと壺の口を夫にむけた。一気に居間にあったものが吸い込まれ、声をあげる間もなく夫も頭から全身吸い込まれてしまった。
「ああ、あなた」
妻は自分のしたことに慌てて思わず壺の口に手を当てた。すると妻の体も一瞬で壺の中に引き入れられてしまった。
花咲き乱れる山の中、空は青く風はゆるやかで暖かな日差し。ふたりは壺に描かれた景色の中にいた。夫は鏡のように透明な湖の畔で、白い花を咲かせた水仙となり、妻も夫の横で艶やかな水仙となっていた。
湖面にはフリーマーケットが写っている。壺を売った店主が新しい壺を並べ訪れた客と話をしている。
「お客さん、お目が高い。この壺は掘り出し物ですよ」
夫婦が買った壺と同じ水仙が描かれた壺、それを見知らぬ老人が熱心にながめている。気づけば湖の畔には何十本という水仙が咲いていた。みな黙って湖面を見つめていた。