阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「東京物語時刻表」野崎順平
冷蔵庫の隣に、平成22年改正という最寄りの駅の時刻表が貼られていた。
一度濡れたものを乾かしたのか、表面はでこぼこしていた。
「父さん、こんな古い時刻表捨てちゃうわよ」
「何言ってんだ。今月の11日に、母さんと東京に行くから、それまでは、剥がしちゃだめだぁ」
父は、毎月11日に近づくと、そわそわしだす。時刻表を指差して。
「何時発の電車だったかなぁ、京子、お前知らねえか」と、娘の私に聞く。
「私じゃわからないわ。お母さんが帰ってきたら聞いてよ」
私の答えはいつも同じ。
平成23年3月11日、私の両親は、東京で家庭をもった長男長女に会いに列車の旅を予定していた。三陸鉄道南リアス線三陸駅17時42分発。前年に東北新幹線が全線開通し、それに乗ることも楽しみにしていた。
ところが、出発の準備をしている最中に、突然の地震、そして、津波。
それからしばらくたって、ようやく、自宅を見に行く許可がおりた。父は、何もかも流された自宅にたどり着くと、水たまりの中に、それだけ取り残された時刻表をみつけて持って帰ってきた。
父は、前から軽い認知症の傾向があったが、その日を境に、「11日」に固執するようになった。仮設住宅をボランティアで診てまわっている医者の長尾先生にも相談したが、「話を合わせてあげたほうが、ショックが少ないから」と言われ、父の話を否定するようなことはしなかった。
そして、あの日からちょうど一年後の「11日」。追悼式などで目を離した隙に、父がスポーツバックをパンパンにして、仮設住宅を出て行く姿を長尾先生に目撃された。すぐに、私のところに連絡がきた。駅の方へ歩いて行ったという。
駅は、周りの瓦礫などは撤去されているが、線路が地震で埋まったり、津波で土台を流されたりで、まったく復旧の見込みが立っていなかった。もちろん、入り口は塞がれ、駅の中に入ることはできない。
父は、閉鎖された駅の入り口の前に、呆然と立ちつくしていた。
「母さん、俺たち出発時刻に遅れっちまったのかななぁ。駅が閉まってるよ。どうしよう」近くに母がいるかのように話をしている。
あの日、母は、私の目の前で流されていった。父は別の場所で津波にあった。母の遺体はまだ見つかっていない。だから、父は、母の死を受け止められないのだと思う。
震災後、仮設住宅での暮らしになったが、周りの人たちからは、
「早くお母さんが帰って来るといいね」
と、父に声かける。この優しさが、父にとって、母は、近所にちょっと出かけていると解釈させてくれたのだろう。母のお出かけは、しばらく続くことになる。
私は、近くに寄って、父にかける言葉を探した。東北の冬は長く、父は、厚手のコートと雪用の長靴を履いていた。
「父さん、東京は春だから長靴は履き替えていかないと、兄さんや姉さんが恥をかくって、母さん言ってたじゃない。さあ、家に戻って履き替えましょう」
とりあえず家に引き返すことができれば、「11日」は先送りとなる。とぼとぼと、二人で歩き始めると、ぼそっと父が、
「子どもたちに、恥をかかすくらいなら、東京なんて行かないほうがいいのかもな。母さんもいないし――」
ふと、父は母の死を理解しているのではと感じた。しかし、
「何言ってんの。東京には母さんと一緒に行くんでしょ。兄さんたちも楽しみに待っているんだから」
「そうかな……」
「そうに決まってるでしょ」
私はそれ以上話せなかった。
平成25年11月、二年以上かかって、ようやく線路の復旧工事と駅の再建工事が終わり、運行が再開された。翌年3月11日、ついに、両親が楽しみにしていた上京が実現することになった。駅のホームに立ち、電車が来るのを待った。駅も周りの風景も三年前とは、一変している。でも、父も母も、この旅を待っていたに違いない。
ホームに滑り込んでくる列車が春の風を運んでくる。私は列車に、母の写真を向けた。
「母さんいよいよ、兄さんと姉さんのいる東京に出発よ」
私の掌の中にある写真には、父の姿もあった。
父は、駅の再開を待てず、昨年、母の元に旅立っていった。ようやく、時刻表のある旅が始まろうとしていたのに。