阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「憂鬱の人」古賀未怜
毎晩、駅ですれ違うある女性をつい目で追ってしまう。
憂いた表情で俯いて歩くその女性。
手には小さなハンドバッグと紙袋を持っている。疲れた顔をしているが、むしろその表情が彼女の美しさに危うげな色気を足していて、毎度ぞくりとさせられる。
すれ違う度、妙な罪悪感を感じぞわぞわした感覚をひきづって男は帰路に着く。
いつも同じ時間の電車に乗って男はこの駅につき改札を出ようとすると、その女性は改札の向こうから現れ駅に吸い込まれていく。当然男の視線には気づかない。判で押したような光景を見続けるようになり三ヶ月。彼女は日に日にやつれていくように見えた。
最初は近くで働いているOLかと思っていたのだが、ある時紙袋の中がちらりと見えて、己の勘が外れている事に気付いた。『東宝大学病院』そう書かれた封筒が、紙袋の中の衣服の上に何気なく入っていたからだ。毎晩六時過ぎに駅に現れるのは、面会時刻の終わりに病院から追い出され帰宅の途に向かうからだろう。彼女の頼りなげな雰囲気にも合点がいった。
毎日面会に来ているとなると親しい間柄なのだろうか。見かけるようになってから三ヶ月、ほぼ毎日、しかも日を重ねるごとに悲壮感も増していく様子から想像すると、患者の容体は良くないのかもしれない。
どんな気持ちでこの駅に向かって歩いてくるのだろうか。そんな事をぼんやりと考えながら、今夜も彼女の姿が現れるのを、男は出口に向かう人の波に乗りながら待った。しかし今夜は現れない。帰路につこうとする人達の前で思わず足を止めてしまい、背後からは露骨な不快感を露わにされたがそんな事は気にならなかった。
彼女が来ない。なんだろう、急に足元が心許ないような、知らない場所に放り込まれたような心細さを感じて、男は名前のない不安に駆られた。
帰宅後久しぶりにビールを飲んで早々に布団に倒れ込んだ。その日の夜彼女の夢を見たが、どんな表情をしていたのか、朝には思い出せなかった。
次の日もやはり彼女は現れなかった。その次の日も次の日も、男はビールを飲んで眠る日が続いた。そのうちに馬鹿らしくなってきて彼女の姿を探すのをやめた。
眠るのにアルコールの力を借りるのをやめてから一ヶ月ほど経った頃、出先から直帰したために珍しくまだ明るい時間帯に駅についた。なんだか清々しい気持ちで改札を出ようとした時、見慣れた光景が目に飛び込んできて、男の心臓は浮き足だった。
彼女だ。
いつの間にか男の脳内に勝手に焼きついて、幾度も繰り返された女のいる風景が予期せぬタイミングで久方ぶりに現れた。
しかし今日は少し違っていた。彼女は改札の向こうから現れたのではなく男の横から現れ、改札を出ようとしていた。奇妙な違和感はそれだけではない。
以前は憂いを帯びていた表情は晴れやかになり、俯くことなく前を見据えて姿勢の良い格好で颯爽と歩いている。相変わらず美しい事に変わりないのだが、なんだか酷く健全で凡庸で、男は僅かに失望した。
女は病院に向かって迷いなく歩を進めていく。男は思わずその後を追ってしまった。頭は体と乖離し己のとった行動に戸惑いを感じたが、しかし女との距離はすぐに縮まった。
目の前には女の柔らかそうな小さな後頭部がある。手を伸ばせば見慣れた光景を現実に掴めるほどの距離感だった。
思わず手を出しかけた瞬間、携帯の機械的な呼び出し音で我にかえり、男は手放しかけた意識を取り戻しホッとした。女は背後の男の憂鬱に気づくはずもなく、無邪気に携帯を取り出して乾いた呼び出し音の代わりに、瑞々しい声で機械に話しかける。
「ええ。今ちょうど病院に向かってるところなの。そう、これから診断書やら、もろもろの書類を受け取りにね」
女の声は想像していたよりもずっと幼くて可憐で、毒々しかった。
「本当、やっとよ。どれだけこの日を待ちわびたか。一時は持ち直すんじゃないかと思って冷や冷やさせられたもの。え?ふふ。ひどいこと言うのね。そんなことしてないわよ。どうせ遅いか早いかなんだから。私、結構忍耐強いのよ」
女はコロコロと笑う。天真爛漫なその様子は、他愛もない世間話をしているようにしか見えないだろう。
「さっさと死んでくれたらよかったのに」
きっと今、何度も見てきた中で一番美しい顔をしているのだろうなと男は想像した。
前を歩く女は、変わらないスピードで進んでいきみるみる離れていく。華やかに軽やかに歩く華奢な後ろ姿を静かに見送った。
男は手を伸ばして小さくなった女の後ろ姿をその手に掴もうとしてみるが、空を掴むだけで酷く虚しい動作となった。
風が出始めていてすっかり薄寒くなっている事にようやく気づき、男は薄いコートの襟を立て顔を埋め、踵を返して駅の方へと戻っていく。
早くビールを飲んで、乾いた喉を潤したい欲求に駆られた。
今夜の寝つきは良さそうだと思った。